1180年(治承4年)10月6日、畠山重忠を先陣として相模国に到着した源頼朝は、翌日には由比郷の鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝します。
そして、12日には、鶴岡八幡宮を小林郷北山に遷しました。
御所の造営は10月9日より大庭景義の奉行によって進められ、12月12日、頼朝は新御所に移ったと伝えられています。
秋戸郷跡
(熱海市)
10月10日、秋戸郷に隠れ潜んでいた北条政子が稲瀬川に到着し、その日は付近の民家に泊まって、翌11日、鎌倉に入りました。
10月20日、平家軍を戦わずして敗走させます。
富士川の戦いのあった翌11月には、常陸の佐竹秀義を攻め、さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を頼朝の支配下に入れました。
佐竹氏征伐後、鎌倉に戻った頼朝は、軍事・警察を担う侍所を設置して、和田義盛を別当としています。
(駿東郡清水町)
富士川の戦いで平家を敗走させた頼朝は、10月21日、黄瀬川で奥州から駆けつけた義経と対面します。
1182年(養和2年)、若宮大路の造営。
若宮大路は鶴岡八幡宮の参道。
鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して造営された参道です。
中央の一段高い段葛も若宮大路と同時期に造営されたものと考えられています。
1182年(養和2年)、奥州平泉の藤原秀衡調伏のため、江の島に弁財天を勧請。
1181年(治承5年)閏2月、平清盛が死去。
清盛の後を継いだ平宗盛は、奥州平泉の藤原秀衡を陸奥守に任じ、頼朝追討令を出していました。
1183年(寿永2年)12月22日、上総広常を謀叛の疑いで暗殺。
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