秀衡は、奥州藤原氏の三代当主。
秀衡は、源頼朝に追われ平泉に逃れてきた源義経を庇護していました。
☆義経自刃☆
義経が平泉に下ったのは1187年(文治3年)の春ごろと考えられているようです。
それから間もなく、秀衡が亡くなり、奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれました。
秀衡は「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」と遺言していたといいますが・・・
頼朝の圧力に屈した泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込んでしまいます。
(平泉町)
義経が最期を迎えた衣川館跡。
1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって館跡に義経堂が建てられ、義経の木像が安置されました。
1689年(元禄2年)5月13日、この地を訪れた松尾芭蕉は「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んでいます。
☆奥州征伐☆
1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、奥州の藤原泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に鎌倉を出発します。
8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山を撃破。
その報を受けた泰衡は、平泉館を焼き払い逃亡しています。
そして・・・
9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。
☆奥州藤原氏の栄華☆
中尊寺は慈覚大師円仁が開いたと伝えられ、奥州藤原氏初代の清衡が堂塔を整えました。
毛越寺は、慈覚大師円仁が開き、奥州藤原氏二代の基衡、三代の秀衡の時代に伽藍が整えられました。
観自在王院は、奥州藤原氏二代の基衡の妻が創建しました。
無量光院は、奥州藤原氏三代の秀衡の創建。
宇治平等院を模した建物だったと伝えられています。
柳之御所遺跡は、泰衡が焼き払った平泉館の跡と考えられています。
奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、9月28日、平泉を発ち、鎌倉への帰路につきます。
その途中に立ち寄ったのが達谷窟毘沙門堂。