源平の合戦がここから始まるわけですが、当時は天候不順が続いていました。
1182年(寿永元年)には大飢饉に見舞われています。
源氏も平氏も食糧補給が困難ですので、しばらく休戦状態が続いていましたが・・・
1183年(寿永2年)、木曽義仲が挙兵。
これをきっかけに源平の戦いが再開しました。
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1184年(寿永3年)1月、木曽義仲滅亡。
同年2月、一の谷の戦いで平家軍敗走。
1185年(寿永4年)2月、屋島の戦いで平家軍敗走。
同年3月、壇ノ浦で平家滅亡。
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1185年(元暦2年)5月7日、源義経が壇ノ浦で捕えた平宗盛父子を護送して鎌倉へと向かいますが・・・
頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。
頼朝の許可なく朝廷の官職を受けたことも一つの理由ですが、梶原景時をはじめとする多くの御家人から義経への不満が届いていたようです。
翌月、義経は再び平宗盛父子を護送して京都へ戻りました。
その後、後白河法皇より「頼朝追討の院宣」が下されますが失敗し、逃亡の末、奥州平泉の藤原秀衡を頼ることとなります。
(京都)
1183年(寿永2年)、木曽義仲が「倶利加羅峠の戦い」で平氏軍を破り、上洛を果たします。
義仲に攻められた平氏は、六波羅を焼き払って京を落ち。
六波羅蜜寺もその兵火によって焼失しています。
(京都)
三十三間堂は、後白河上皇が創建した蓮華王院の本堂。
都に入った義仲はやがて後白河法皇と対立。
法皇は源頼朝に上洛を促します。
頼朝の上洛を恐れる義仲は、1183年(寿永2年)11月、法住寺殿の焼き討ちし、12月には頼朝追討の院宣を強要、翌年1月には征東大将軍に任命されました。
1184年(寿永3年)1月、頼朝は弟の範頼・義経に義仲追討を命じます。
範頼が瀬田を、義経が宇治を攻撃しました。
敗走した義仲は近江国粟津で最期を遂げています。
教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、一の谷の戦いで捕えられた平重衡が信仰していたのだと伝えられています。
壇ノ浦の戦いで捕えられた平宗盛が持っていたとされる「平家の赤旗」が保管されています。
1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経は、平家の大将平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとしますが、兄頼朝は鎌倉に入ることを許しませんでした。
(京都)
1185年(文治元年)10月17日、頼朝は土佐坊昌俊に命じて義経の堀川館を襲撃させます。
その後、義経は都を落ち行方不明となります。
若宮八幡宮は堀川館に勧請されたのを始まりとしているのだと伝えられています。
1185年(文治元年)、勝長寿院を創建。
後白河法皇から送られた源義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られました。
1186年(文治2年) 3月1日、義経とともに逃亡していた静御前が捕えられて鎌倉へと送られてきました。
4月8日、鶴岡八幡宮で舞を披露しています。
1187年(文治3年)8月15日、頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を催し、流鏑馬を奉納しました。
鎌倉との繋がりを求めて・・・