1159年(平治元年)12月に起こった平治の乱に父源義朝とともに出陣した源頼朝は平清盛に敗れ、翌年3月に伊豆国へ流されました。
(伊豆の国市)
流された場所は蛭ヶ小島だったといいます。
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頼朝は、それから約20年間を伊豆国で過ごしました。
その間、北条政子と結婚し大姫が誕生しています。
そして、1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たしました。
挙兵した日は、信仰していた三嶋大社の例祭の日。挙兵前には守山八幡宮で源氏再興の祈願を行ったといいます。
(三島市)
(伊豆の国市)
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伊豆国の目代山木兼隆を討った頼朝は、8月20日、相模国へと進軍し、23日には石橋山に布陣しました。
(小田原市)
しかし、大庭景親・伊東祐親らの平氏軍に敗れ山中に逃れます。
湯河原町には頼朝が隠れ潜んだという岩窟が残されています(しとどの窟)。
この山中の逃亡では、敵の梶原景時が頼朝を助けたという言い伝えも残されています。
(湯河原町)
(箱根町)
その後、箱根権現を頼りますが、間もなく土肥へ下り、8月28日、真鶴から安房へ船出しました。
ここまでの手引きをしたのは湯河原・真鶴を本拠としていた土肥実平でした。
(真鶴町)
頼朝が挙兵してから船出するまでの間、政子は伊豆山神社に身を寄せていましたが、9月2日、平氏の追手から逃れるために秋戸郷に移ったといいます。
(熱海市)
(熱海市)
(鋸南町)
真鶴から船出した頼朝は、8月29日、安房国平北群猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸しました。
そこで、先発していた北条時政や三浦一族と合流しています。
~安房上陸から鎌倉入りまで・・・~
9月1日 | 安西景益に参陣するよう書状を送る。 |
9月3日 | 平北群を発って上総広常の屋敷へ向かう。 長狭常伴が頼朝の宿舎を襲撃しようと企てるが、三浦義澄が征伐。 |
9月4日 | 安西景益参陣。予定を変更して景益邸に渡御。 上総広常・千葉常胤に参陣するよう書状を送る(使者は和田義盛・安達盛長)。 |
9月5日 | 洲崎明神に参拝。願文奉納。 ※品川の洲崎神社は頼朝によって洲崎明神が勧請された。 |
(館山市)
9月6日 | 上総広常が千葉常胤に相談して参陣する旨回答。 |
9月8日 | 北条時政が甲斐国へ出発。 |
9月9日 | 千葉常胤が鎌倉入りを進言(安達盛長が使者)。 |
9月10日 | 先祖源頼義の最初の恩給地丸御厨を巡見。 |
9月13日 | 上総国へ進軍。頼朝軍300騎に。 |
9月17日 | 上総広常の参陣を待たず下総国へ向かう。千葉常胤が300騎を率いて参陣。 |
9月19日 | 隅田川辺まで進軍。 上総広常が2万騎を率いて参陣。 |
9月29日 | 頼朝軍2万7千騎に。 |
10月1日 | 異母弟阿野全成と鷺沼の旅館で対面。 |
(習志野市)
頼朝と全成が対面したという場所。
(習志野市)
10月2日 | 千葉常胤、上総広常とともに江戸川、隅田川を渡って武蔵国に入る。 頼朝軍3万騎に。 豊島清元、葛西清重、足立遠元が参陣。 頼朝の乳母寒河尼が息子を連れて訪問(のちの小山朝光)。 |
(浅草)
武蔵国に入った頼朝は浅草寺で平氏討滅祈願を行ったという。
10月4日 | 長井の渡しに達すると、畠山重忠、河越重頼、江戸重長が参陣。 |
10月6日 | 先鋒を畠山重忠、殿(しんがり)を千葉常胤がつとめ相模国に入る。 |
10月7日 | 鶴岡八幡宮を遙拝し、父源義朝の旧跡を訪れる。 |
頼朝が遙拝した鶴岡八幡宮とは、源頼義が材木座に創建した鶴岡若宮のこと。
源義朝の旧跡とは、義朝の屋敷があったとされる亀ヶ谷で、現在の壽福寺辺りだとされる。
~鎌倉に入った源頼朝~
10月9日、大庭景義を奉行として御所の造営を始めます。
ただ、当分の間は、首藤兼道の山内の屋敷を移築した建物を御所として使用することとしました。
平安時代の陰陽師安倍晴明の伝説が残された建物だったようです。
10月12日には、秋戸郷に隠れていた政子が鎌倉に入り、翌日には御所に入りました。
そして10月12日、先祖源頼義が由比郷鶴岡に京都石清水八幡宮の祭神を勧請して建てた鶴岡若宮(元八幡:材木座)を、小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えています。
以後、鎌倉の街は、鶴岡八幡宮を中心として発展していくことになります。
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