源頼朝の経塚 源頼朝は源氏再興を祈願して、ここに法華経六萬部を納めたのだといいます。 |
経塚のある六萬部寺 |
~ 参 考 ~
(法華経信者だった源頼朝)
(法華経信者だった源頼朝)
『吾妻鏡』によると、源頼朝は1180年(治承4年)7月4日、伊豆山権現の僧文陽房覺淵を北条屋敷に呼び出しています。
頼朝は、挙兵前に法華経を千回唱えるつもりでいたようです。
しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなりました。
そこで、
「たとえば八百回だとしたら功徳をつむことはできるのか?」
と覺淵に訪ねたといいます。
すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたといいます。
(頼朝の守り本尊)
挙兵した頼朝は髷に観音像を入れていました。
1180年(治承4年)8月24日条、石橋山で大庭景親ら平氏方に敗れた頼朝は、「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考え、観音像を山中の洞窟に置いて逃げたといいます。
この観音像は、頼朝が三歳のときに京都清水寺から下された二寸銀の正(聖)観音像で、のちに伊豆山権現の專光坊良暹の弟子僧が見つけて頼朝に届けられました。
そして、1189年(文治5年)に建てられた持仏堂(法華堂)の本尊となります。
※観音経は法華経のなかの一つ。
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