別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年7月28日木曜日

飢饉・天災と忍性の救済活動~極楽寺~

鎌倉時代中期、北条時頼の時代は災害と飢饉の時代でした。

『吾妻鏡』は、1258年(正嘉2年)6月24日条で「鎌倉の寒気はまるで冬天のようだ」と記しています。

鎌倉は、冷害によって、北条泰時の時代に発生した寛喜の飢饉に続き、正嘉年間にも深刻な飢饉にみまわれます(正嘉の飢饉)。

この頃の鎌倉は、冷害だけではなく、暴風雨も相次ぎ、大地震も発生しています。

1260年(文応元年)、日蓮北条時頼に提出した『立正安国論』には、「天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち・・・・牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり」と記されています。

翌年、幕府は、病人、孤児(みなしご)、死体を路上に捨てることを禁止しています。

しかし、こういった禁制にもかかわらず、路上には病人が捨てられていました。由比ヶ浜には、捨てられた病人を収容する「無常堂」という施設があったといいます。


~叡尊の鎌倉下向~

そんな悲惨な状況の中の1262年(弘長2年)2月、真言律宗の叡尊が鎌倉に下向しました。

叡尊の鎌倉での活動をつづった『関東往還記』によると・・・

5月1日、浜悲田と大仏悲田で貧民たちに食を施しています。

浜悲田を担当したのは、のちに極楽寺の開山となる忍性でした。

※「悲田」というのは、病人・貧民・孤児などを収容する施設です。

叡尊は、7月に鎌倉を去っています。


新清凉寺釈迦堂跡
(新清凉寺釈迦堂)

叡尊


~忍性の救済活動~

忍性極楽寺を拠点として、病人や貧民の救済事業にあたります(極楽寺が開かれたのは1267年(文永2年))。


 茶を薬として調合するために使用したという
千服茶臼と製薬鉢

忍性が粥を施すために使用したという井戸。


忍性によって開かれた桑ヶ谷療養所は、北条時宗の要請によって置かれました。

時宗からは療養所の運営費用のために、土佐国(高知県)大忍荘が寄進されたといいます。


桑ヶ谷療養所跡


そして、和賀江嶋の管理と引き換えに関税を徴収する権利も与えられました。

これも福祉活動を任されたことに対する特権だったのでしょうか・・・。




忍性は、病人や貧民の救済だけでなく、極楽寺切通の開削や道路・橋の整備などの土木事業も行い、雨乞いの祈祷などの救済活動も行いました。

また、永福寺明王院鎌倉大仏の別当も務めています。


極楽寺

現在の極楽寺は、吉祥院のみですが、繁栄時には49の支院があったといいます。

観音堂

観音堂の如意輪観音は鎌倉三十三観音の一つ。


極楽寺


鎌倉手帳


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