正式名称は「鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)」。
1668年(寛文8年)、鶴岡八幡宮参道「若宮大路」の三つの鳥居は、徳川四代将軍家綱によって寄進されますが、1923年(大正12年)に発生した大地震によって、三つ鳥居の全てが倒潰してしまいました。
その後、一の鳥居だけが、もとのように復元されています(1937年(昭和12年))。
倒潰した三の鳥居の様子
二の鳥居も三の鳥居も、一の鳥居と同じく石造でしたが、一の鳥居のように復元はされず、鉄筋コンクリート製の鳥居に建て替えられました。
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~鳥居の数え方・・・?~
現在、若宮大路の三つの鳥居は、由比ヶ浜から「一の鳥居」、段葛が始まる所の「二の鳥居」、そして、鶴岡八幡宮入口の「三の鳥居」といった具合に数えられています。
しかし、現在とは逆の呼び方をしていた時もあったようです。
つまり、一の鳥居が「三の鳥居」と呼ばれていたということです。
1685年(貞享2年)の絵図
これは、徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』所載の絵図ということですが、一の鳥居は「大鳥居」、二の鳥居は「二鳥居」、そして、三の鳥居が「一鳥居」として描かれています。
本文には・・・、
「三所に石の鳥居あり。赤橋の前の鳥居より間四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云ふ。二の鳥居より間、六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也。是を大鳥居と云ふ」
と記されているようです。
※赤橋というのは太鼓橋のことです。
『新編鎌倉志』の他にも、『鎌倉三五記』(紀伊国屋文左衛門)、『東海道名所絵伝』、『鎌倉詣』といった書物にも同じ内容の記載があるようです。
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~崇源院の願いによる鳥居~
徳川二代将軍秀忠の妻は「お江」です。
のちに崇源院と呼ばれますが、崇源院は鶴岡八幡宮の弁財天を信仰していたといいます(参考:旗上弁財天社)。
ある夜、崇源院の夢の中に弁財天が現れて、「木造の鳥居を石造にするように」と告げたといいます。
そして、完成したのが現在の石造鳥居と伝えられています。
1668年(寛文8年)、徳川四代将軍家綱は、鶴岡八幡宮修理の一環として、若宮大路の三つの鳥居を木造から石造に建て替えました。
崇源院の遺願も込められた鳥居です。
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~浜の大鳥居跡~
一の鳥居は、1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉入りを果たし、由比若宮(鶴岡若宮)を現在地に遷座したときに創建され、その後、何回もの再建が繰り返されたものと考えられます。
そして、当初鳥居が建てられた場所は、現在の場所より鶴岡八幡宮寄りにあったようです。
現在の由比ガ浜歩道橋付近にある鳥居跡は、戦国時代の北条氏康によって造立されたものと考えられています。
ここが当初の鳥居の位置に近い位置なのかもしれません。
これは、鳥居の柱根があったことを表しています。
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鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)
中世には浜の大鳥居とも呼ばれた鶴岡八幡宮の一の鳥居。
現在の鳥居は、海岸の砂丘地帯に建てられています。
高さ8.5メートルにもなる御影石で造られた鳥居です。
(一の鳥居から海方面)
(一の鳥居から鶴岡八幡宮方面)