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鎌倉検定過去問~来迎寺の三浦義明の墓~

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材木座の来迎寺に墓がある武将はだれか。 源頼朝が材木座の来迎寺の地にもともとあった能蔵寺を建立した理由は何か。 材木座の来迎寺はもともと源頼朝が衣笠城主〔      〕の菩提を弔うために建立した寺であった。戦死した〔      〕は 17 回忌まで生きたものとみなすように頼朝が伝えたため「〔      〕公」とも呼ばれた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 来迎寺 材木座の 来迎寺 は、 源頼朝 が 三浦義明 の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としている寺院。 三浦義明と多々良重春の墓 (来迎寺) 1180年(治承4年)、 伊豆国 で 源頼朝 が 挙兵 。 三浦一族の総帥・ 三浦義明 は頼朝に味方しますが、 畠山重忠 らに居城の 衣笠城 を攻められ討死しました(小坪・衣笠合戦)。 来迎寺には三浦義明と孫で 由比ヶ浜 で命を落とした多々良重春の五輪塔が建てられています。 江戸時代の門付歌に「鶴は千年、亀は万年 三浦大介百六つ」というのがあったそうです。 ※門付とは、門前で音曲などを奏する芸。 これは、 源頼朝 が三浦義明の17回忌で「あなたは今も私の中で生きている」と述べたことに始まっているのだとか。 義明が亡くなった89歳に17歳を足して「百六つ」。 満昌寺 (横須賀) 能蔵寺が建てられたのと同じ年、 頼朝 は義明の本拠地にも、義明を供養するための 満昌寺 を建立しています。

鎌倉検定過去問~日蓮の松葉ヶ谷法難~

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日蓮が念仏門徒に松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされたとき、裏山の洞窟へ日蓮を導いたという逸話が残る動物は何か。 日蓮が『立正安国論』を前執権であり、得宗の北条時頼に上書したが、幕府には受け入れられなかった。この後、日蓮は念仏門徒により〔   〕の草庵を襲撃されたが、 〔   〕の導きにより何とか難を逃れた。 松葉ヶ谷の法難のとき、 〔   〕 に助けられた日蓮が逃げたのはどこにつづく裏山か。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1260年(文応元年)7月16日、 日蓮 は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた 『立正安国論』 を 北条時頼 に提出します。 しかし、これが原因となって、8月27日夜、念仏信者らによって草庵が焼き討ちされてしまいました( 松葉ヶ谷法難 )。 草庵を焼き討ちされた 日蓮 は、どこからともなく現れた白猿に導かれ、 名越切通 の「お猿畠」に避難したのだとか。 法性寺 逗子の 法性寺 の山号は「猿畠山」。 日蓮 が草庵を焼討ちされた際、3匹の白猿が現れて日蓮をお猿畠に避難させたという伝説が残されています。 日吉大社 日蓮 を救った白猿は、かつて修行した 比叡山 の山王権現( 日吉大社 )の白猿だったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 松葉谷御小庵跡 (妙法寺) 御小庵 (安国論寺) 大町の 妙法寺 ・ 安国論寺 、そして材木座の 長勝寺 が松葉ヶ谷草庵があった場所とされていますが、何処にあったのかは特定されてはいません。

吉野に南朝を興した後醍醐天皇と北条時行

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鎌倉幕府は、1333年(元弘3年)、 後醍醐天皇 の綸旨を受けて上野国で挙兵した 新田義貞 に滅ぼされました。 後醍醐天皇による親政(建武の新政)が開始されますが・・・ 1335年(建武2年)、 足利尊氏 が離脱。 このきっかけを作ったのが北条時行が起こした 中先代の乱 でした。 翌年、尊氏は光明天皇を即位させて 「建武式目」 を制定し、室町幕府を成立させます。 これにより建武の新政は崩壊し、後醍醐天皇は 花山院 に幽閉されてしまいます。 その後、後醍醐天皇は 花山院 を脱出して 吉野 へ行幸。 自ら主宰する朝廷を開いたことにより、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 吉水神社 1336年(延元元年/建武3年)、密かに吉野へ行幸した 後醍醐天皇 が居所としたのが吉水院(現在の 吉水神社 )。 後醍醐天皇が吉野に南朝を興すると、北条時行は朝敵の赦免を願い出たのだといいます。 『太平記』によると・・・ 我らの敵は、鎌倉幕府を裏切り、さらに後醍醐天皇まで裏切った足利尊氏・直義の兄弟のみ。 北条一族を赦免して頂き、朝敵征伐の綸旨を賜りたく・・・ という内容だったのだとか。 如意輪寺 如意輪寺 は 後醍醐天皇 の勅願寺(南朝勅願寺)。 1339年(延元4年/暦応2年)8月16日、後醍醐天皇は還御することなく崩御(宝算52)。 陵墓は如意輪寺にあります。 吉野山 吉野 は・・・ 天智天皇の後継を辞退した大海人皇子が下った地。 藤原道長 が金峯山詣を行い自ら書写した経を埋納した地。 源頼朝 に追われた 源義経 が身を隠し、愛妾の 静御前 と別れた地。 鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、 護良親王 (後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした地。 そして、 後醍醐天皇 が南朝を興した地。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

鎌倉検定過去問~東身延の額:五郎入道正宗と松平定信~

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(問)本覚寺所蔵の「東身延」の額の文字を揮毫したのはだれか。 本覚寺 は二代日朝が身延山久遠寺にあった 日蓮 の遺骨を分骨したことから「東身延」と呼ばれている寺です。 「東身延」の額は松平定信によるもの。 松平定信は、八代将軍徳川吉宗の孫。 寛政の改革を行ったことで知られていますが、何故、本覚寺の額を書いたのでしょう? 定信が「熱心な日蓮信者」だったということでもないようです。 定信の祖父・吉宗は刀剣書の『享保名物帳』を編纂させています。 その中には、鎌倉時代から室町時代に鎌倉で活躍したに五郎入道正宗の刀も多く含まれています。 定信が編纂した古宝物図録『集古十種』は、吉宗の意図を継承したものと考えられ、その中には正宗の刀も含まれています。 そして、正宗の菩提寺は 本覚寺 。 定信が「東身延」の額を書いた理由には、正宗の刀が関係あるようですですが・・・ どうなのでしょう? 五郎入道正宗の墓 (本覚寺) 正宗という名は・・・ 佐渡流罪を許されて、 夷堂 で布教活動をしていた 日蓮 に付けてもらったものだといいます。 包丁正宗 包丁正宗 は 荏柄天神社 に伝えられた名刀で定信の『集古十種』にも収録されている。

天から天神画像が降ってきた!~鎌倉:荏柄天神社~

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荏柄天神社 1104年(長治元年)8月25日、荏草郷といわれた土地に、にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきました。 神験を恐れた里の人々は、その場所に社殿を建て、画像の降り立った地を踏むことのないように銀杏の木を植えて御神木とし、その画像を祀ったのだそうです。 天神とは、無実の罪で大宰府に左遷され、都に戻ることなく没した 菅原道真 のこと。 荏柄天神社 の祭神は 道真 。 大銀杏 荏柄天神社 の 大銀杏 は、樹齢900年ともいわれる古木。 北野天満宮 京都の 北野天満宮 は 菅原道真 の怨霊を鎮めるために建立された社。 947年(天暦元年)、多治比文子、近江国比良宮の神主・神良種、北野の朝日寺の僧最珍らが道真を祀る社を建てたのが始まり。 987年(永延元年)には、 一条天皇 の勅使が派遣され、「北野天満宮天神」の神号が与えられました。 道真は、宇多・醍醐天皇に仕えて右大臣にまで昇りますが、藤原時平の讒言で失脚し、左遷先の太宰府で最期を遂げました。 死後、朝廷に祟りをなしたため天神として祀られています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

石橋山から伊豆へ向かった北条宗時~石橋山の戦い~

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1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で 源氏再興の挙兵 をした 源頼朝 は、8月24日、 石橋山の戦い で大敗。 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い での敗北後、 北条時政 と 北条義時 は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、 北条宗時 は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。 しかし、宗時は平井郷を目の前にして 伊東祐親 軍に討たれてしまいます。 時政 が甲斐国を目指したことについては、 武田信義 を味方につけるためということで理解できますが・・・ 宗時は何故、 伊豆国 へ戻っていったのでしょう・・・ 宗時の墓 があるのは函南町大竹。 川を渡れば平井。 もう少しで 北条の地 という場所です。 伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが・・・ 参考までに、 源頼朝 は 石橋山の戦い で討死した者に対して弔いをしているようですが、宗時に対するものは記録されていないようです。 時政 は1202年(建仁2年)に伊豆国で宗時の菩提を弔ったようですが・・・ それは頼朝の死後の事。 石橋山の戦いから20年以上も経ってからのことです。 頼朝と宗時の間には何かあったのかもしれません。 北条父子は頼朝を見捨てたのかも・・・ 📎北条時政の不思議な行動~石橋山の戦い~ 冷川 『吾妻鏡』によると、宗時が討たれたのは早川(はやかわ)。 早川とは函南町を流れる冷川(ひえかわ)の事ではないかとする説があります。 北条宗時の墓 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

金色堂建立900年~道長の法成寺・頼通の平等院と奥州藤原氏~

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平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われました。 その始まりは慈覚大師(円仁)が 延暦寺 に建立した 常行堂 。 藤原道長 が帰依した源信(恵心僧都)が修行をした 横川 の 恵心堂 は、浄土信仰発祥の地といわれています。 貴族階級が競うように阿弥陀堂を建立した中で、1020年(寛仁4年)に創建された 道長 の 法成寺 は最大規模のものだったようです。 法成寺 の造仏を担当した定朝でした。 道長 の没後、東北地方は戦乱の時代となります。 そして、陸奥・出羽の両国を手に入れることになったのが 藤原清衡 。 1105年(長治2年)、 清衡 は前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するための仏国土建設を開始。 中尊寺 には多くの堂塔が建立され、1124年(天治元年)には清衡の廟堂としての阿弥陀堂( 金色堂 )が建立されました。 中尊寺金色堂 2024年(令和6年)は 金色堂 建立から900年。 『吾妻鏡』によると、堂内の阿弥陀三尊・二天・六地蔵は定朝の作。 平等院鳳凰堂 宇治の 平等院 は、 道長 の別荘「宇治殿」を始まりとする寺。 1053年(天喜元年)に落成した阿弥陀堂( 鳳凰堂 )は、 法成寺 の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。 本尊の阿弥陀如来は定朝が造立しました。 『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏三代当主の 藤原秀衡 が平泉に建てた 無量光院 は、平等院を模していたのだといいます。