1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、8月24日、石橋山の戦いで大敗。
『吾妻鏡』によると・・・
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いでの敗北後、北条時政と北条義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、北条宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。
しかし、宗時は平井郷を目の前にして伊東祐親軍に討たれてしまいます。
時政が甲斐国を目指したことについては、武田信義を味方につけるためということで理解できますが・・・
宗時は何故、伊豆国へ戻っていったのでしょう・・・
宗時の墓があるのは函南町大竹。
川を渡れば平井。
もう少しで北条の地という場所です。
伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが・・・
参考までに、源頼朝は石橋山の戦いで討死した者に対して弔いをしているようですが、宗時に対するものは記録されていないようです。
時政は1202年(建仁2年)に伊豆国で宗時の菩提を弔ったようですが・・・
それは頼朝の死後の事。
石橋山の戦いから20年以上も経ってからのことです。
頼朝と宗時の間には何かあったのかもしれません。
北条父子は頼朝を見捨てたのかも・・・
📎北条時政の不思議な行動~石橋山の戦い~
冷川
『吾妻鏡』によると、宗時が討たれたのは早川(はやかわ)。
早川とは函南町を流れる冷川(ひえかわ)の事ではないかとする説があります。
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