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円覚寺塔頭佛日庵のハクモクレン2021/03/11

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円覚寺 塔頭 佛日庵 の ハクモクレン は、中国の小説家・魯迅から贈られた株。 ちょっと早かったようです。 泰山木 泰山木も魯迅から贈られた株。 佛日庵 佛日庵 (ぶつにちあん)は、八代執権 北条時宗 の廟所(開基塔)。 九代執権貞時・十四代執権高時も合葬されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北条泰時・北条時頼も掲げた魔除けの札~蘇民将来の子孫の家也~

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蘇民将来子孫家也急々如律令 北条泰時 ・ 北条時頼 の邸跡から出土したという木札。 蘇民将来(そみんしょうらい)とは、旅中に宿泊する所がない須佐之男命(すさのおのみこと)を泊め、須佐之男命から茅の輪を賜り、疫病が流行った時にその茅の輪のおかげで助けられたという神話の中の人物。 京都の 八坂神社 の祭礼 「祇園祭」 で授与される 「ちまき」 には、「蘇民将来子孫也」という護符が貼られています。 これには、「私は蘇民将来の子孫です。病気や災いから護って下さい」という意味があるのだとか・・・。 北条氏邸跡で発見された木札は、屋敷の入り口の柱か塀に打ち付けられていたものと考えられています。 「急々如律令」は「律令のごとくすぐに実行せよ」という意味で、陰陽師などが疫病退散の呪文として用いたようです。 「ここは蘇民将来の子孫の家。悪魔は速やかに去れ!」という意味になるのでしょうか・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 1231年(寛喜3年)4月、ある僧に京都の祇園社( 八坂神社 )からお告げがありました。 僧は夢の中の言葉を呪符として、洛中で配ったのだといいます。 九条道家は、その「□□□急々如律令」等と書かれた呪符を四代将軍 九条頼経 に送ってきたそうです。 そして、人毎に銭五文か三文を割り当てて般若心経を読誦し、南東の方角で鬼気祭を修すれば、今年は流行病も餓死も防ぐことができる。 疫病は、5月から6月18日までに流行るので、この魔除けの札を掛けておくように。 と伝えてきたのだとか。 ※道家は頼経の父。 粽(ちまき) 毎年、7月に行われる京都の 祇園祭 は、須佐之男命を祭神とする 八坂神社 の祭礼。 授与される厄除けのお守りは 「粽」(ちまき) と呼ばれます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 茅の輪くぐり 茅の輪は疫病を退散させるお守りでした。 それが次第に大きくなり、くぐって無病息災を祈願するようになったのだとか・・・。 鶴岡八幡宮 の大石段の下には自祓所が設けられ、いつでも茅の輪くぐりができます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉歴史文化交流館では、企画展「まじないの世界」が催されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝が伊豆国流罪となった日

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1160年(永暦元年)2月9日、平頼盛の家人の平宗清に捕えられ、 平清盛 のいる 六波羅 へ連行された 源頼朝 。 頼朝を捕えた平宗清は、 池禅尼 に頼朝の命乞いをしたのだといいます。 頼朝が亡くなった子の家盛に似ていると聞かされた 池禅尼 は、 清盛 に助命を嘆願。 そのおかげで処刑を免れた頼朝は、3月11日に伊豆国流罪となりました。 『吾妻鏡』によると、頼朝を伊豆国まで送っていったのは、母 由良御前 の弟祐範の郎従と、父 義朝 の家臣だった長田資経の親族の藤七資家。 源家代々の家人らは、滅びたり、平家の家人となったり、左遷の身となっていたため、頼朝に従う者はいなかったのだそうです。 頼朝が流された地は 蛭ヶ小島 とも伝えられますが、実際はどこに流されたのかはわかりません。 伊東の 伊東祐親 のもとで暮らしていたという説もあるようです。 建部大社 『平治物語』によると、伊豆国へ向かうため京を発った頼朝は、近江国で 建部大社 を参拝、源氏再興の祈願したのだいいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伊豆国に流された頼朝は罪人ですので、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどができなかったようです。 ただ、様々な援助によって生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったといいます。 特に乳母の 比企尼 の物資の援助は、頼朝を助けたと思われますし、尼の娘婿の 安達盛長 、 河越重頼 、伊東祐清、甥の 比企能員 なども頼朝の支援者として働いていたものと考えられています。 また、母 由良御前 の弟祐範は毎月使者を送り、伯母が頼朝の乳母だったという 三善康信 は定期的に京都の情報を送り続けていたのだといいます。 おそらく、母の実家である 熱田神宮 大宮司の援助も受けていたのでしょう。 小山政光 の妻 寒川尼 、山内俊通の妻 山内尼 といった乳母たちも、何らかの形で頼朝を支援していたのではないでしょうか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉幕府の裁判所:問注所

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問注所 は、1184年(元暦元年)10月20日に 源頼朝 の 御所 内に設置された訴訟事務を所管する機関。 頼朝亡き後の1199年(建久10年)4月1日、現在の 御成小学校 付近に移転されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によれば、人々が群集し、騒ぎたて、無礼を働く者がいたため、頼朝の時代から移転が検討されていたのだといいます。 熊谷直実 と久下直光の土地の境界を巡っての論争では、うまく弁解が出来ない直実が西の侍所で髷を切ったという事件が発生。 以来、御所での裁判を中止して、 三善善信 の家を裁判の場所としてきたのだとか。 その後、裁判を行う場所について議論が重ねられ、1199年(建久10年)4月1日に 御所 の外に新造されることとなったのだといいます。 📎 熊谷直実と久下直光の境界争いの裁判 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 三善善信 は問注所の執事。 公家の家に生まれ、 頼朝 の乳母の妹を母としており、伊豆 蛭ヶ小島 に流されていた頼朝に京都の情勢を知らせていた人物として知られています。 鎌倉・室町期を通じて 問注所 の執事は三善氏が世襲しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 裁許橋 問注所での裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋が 裁許橋 。 一方、有罪となった者は 六地蔵 辺りにあった刑場で処刑されたのだとか。 六地蔵 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉:長谷寺の春2021/03/10

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ハナモモ サンシュユ ミヤマンショウ ハクモクレン 黄梅 寒緋桜 コブシ アジサイ ハクモクレン ☆ ☆ ☆ ☆ ☆