1160年(永暦元年)2月9日、平頼盛の家人の平宗清に捕えられ、平清盛のいる六波羅へ連行された源頼朝。
頼朝を捕えた平宗清は、池禅尼に頼朝の命乞いをしたのだといいます。
頼朝が亡くなった子の家盛に似ていると聞かされた池禅尼は、清盛に助命を嘆願。
そのおかげで処刑を免れた頼朝は、3月11日に伊豆国流罪となりました。
『吾妻鏡』によると、頼朝を伊豆国まで送っていったのは、母由良御前の弟祐範の郎従と、父義朝の家臣だった長田資経の親族の藤七資家。
源家代々の家人らは、滅びたり、平家の家人となったり、左遷の身となっていたため、頼朝に従う者はいなかったのだそうです。
頼朝が流された地は蛭ヶ小島とも伝えられますが、実際はどこに流されたのかはわかりません。
伊東の伊東祐親のもとで暮らしていたという説もあるようです。
『平治物語』によると、伊豆国へ向かうため京を発った頼朝は、近江国で建部大社を参拝、源氏再興の祈願したのだいいます。
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伊豆国に流された頼朝は罪人ですので、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどができなかったようです。
ただ、様々な援助によって生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったといいます。
特に乳母の比企尼の物資の援助は、頼朝を助けたと思われますし、尼の娘婿の安達盛長、河越重頼、伊東祐清、甥の比企能員なども頼朝の支援者として働いていたものと考えられています。
また、母由良御前の弟祐範は毎月使者を送り、伯母が頼朝の乳母だったという三善康信は定期的に京都の情報を送り続けていたのだといいます。
おそらく、母の実家である熱田神宮大宮司の援助も受けていたのでしょう。
小山政光の妻寒川尼、山内俊通の妻山内尼といった乳母たちも、何らかの形で頼朝を支援していたのではないでしょうか。
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