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佐々木盛綱が活躍した藤戸の戦い~平家追討~

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『平家物語』によると・・・ 1184年(元暦元年)9月12日、 源範頼 が平家追討のため西国へ向けて都を発った。 従う者は、 足利義兼 ・ 北条義時 ・ 中原親能 ・ 土肥実平 ・土肥遠平・ 三浦義澄 ・ 三浦義村 ・ 畠山重忠 ・長野重清・ 佐原義連 ・ 和田義盛 ・ 佐々木盛綱 ・土屋宗遠・ 天野遠景 ・比企朝宗・ 比企能員 ・ 八田知家 ・安西景益・大胡実秀・中条家長・一品房昌寛・ 土佐坊昌俊 など勢三万騎余。 範頼軍は、備前国の西川尻、藤戸に陣を取り、対する平家軍は、平資盛・平有盛・平忠房・平盛嗣・藤原忠光・藤原景清を先陣として、五百艘余りの兵船を備前児島に就けた。 やがて源平両方が陣を向かい合わせた。 陣の間は二十五町(約2.5km)だったが海。 範頼軍には船がないので攻めることはできず、無駄に日数を送ることに。 すると、9月15日辰の刻(午前8時頃)、平家方の兵が小舟を漕ぎ出して扇を上げ、範頼軍を手招きした。 どうすればよいのかわからない範頼軍。 9月25日夜、近江国住人の 佐々木盛綱 が一人の浦の男を呼び、直垂・小袖・大口・白鞘巻などを与えて、馬が渡れる場所を聞き出した。 盛綱は試しに裸になって浦の男と渡ってみた。 ひどく深い所はなく、なんとか浅瀬に泳ぎ着くことができたが、男が言うには、これより南はさらに浅いのだという。 男は「そこから戻りましょうか?」と言うが・・・ 誰か他にも話してしまうかもしれないと考えた 盛綱 は、男を刺し殺し、首を掻き斬って捨てたのだという。 翌日辰の刻(午前8時頃)、再び、平家方の兵たちが小舟を漕ぎ出し、扇を上げて手招きをする。 海の浅い所を知っていた 盛綱 は、家人とともに七騎で海に打ち入れた。 それを見ていた 範頼 は、 土肥実平 に命じて止めさせようとするが、実平の静止を無視して渡っていったため、実平も続いたのだという。 海が浅いのを知った 範頼 は、三万騎の兵に海を渡るよう下知。 これを見た平家は、舟を押し浮かべて矢を射かけたが、範頼軍は物とも戦い平家軍を追い落とした。 敗走した平家軍は 屋島 に逃れている。 盛綱は、この功績で備前児島を与えられたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』では・・・ 範頼軍が京を発ったのは

常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸

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『平治物語』によると・・・ 1160年(平治2年)1月5日朝、 源義朝 に仕えていた金王丸が、 常盤御前 の許にやって来た。 馬から飛んで下り、しばらくは涙に暮れていた金王丸。 そして、 「この三日の夜明け前に、 尾張国野間 で、 長田忠致 によって、義朝様が討たれました」 と話した。 聞き終わらないうちに、涙ぐむ 常盤御前 と幼い三人の子どもたち。 金王丸は、 朝長 (義朝の次男)と源義隆( 義家 の七男)が討たれたことも話した。 金王丸の話を聞いた 常盤御前 は、三人の子の行く末を案じて伏してしまったが、金王丸は泣きながら、 「 義朝 様は、道中、子どもたちのことだけを心配しておられたので、誰かが知らせなくてはと思い、取るに足りない命をながらえてやって来ました。 義平 様(義朝の長男)も 頼朝 様(義朝の三男)も、捕らわれてしまったでしょう。 幼い子たちはさらに望みがありません。 ならば、長年お供した私が僧となって、 義朝 様の菩提を弔うつもりです」 と言って、立ち去ったのだという。 その後、 常盤御前 と三人の子は、大和国に逃れた後、 平清盛 のいる 六波羅 へ出頭。 助命され、長男の今若は 醍醐寺 で、次男の乙若は 園城寺 で出家。 三男の今若は、 常盤御前 が再婚した一条長成に育てられ、11歳の時に 鞍馬寺 に預けられた。 義朝の長男 義平 は、六条河原で斬首。 三男の 頼朝 は、 伊豆国 の 蛭ヶ小島 に流された そして、金王丸は、出家して土佐坊昌俊と名乗ったのだという。 のちに、 源義経 を襲撃する 土佐坊昌俊 と同一人物とも・・・ 金王八幡宮 (東京都渋谷区) 金王丸は、渋谷重家の子と伝えられ、氏神の 金王八幡宮 には、金王丸の御影堂が建てられている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

梶原景時の変で生け捕られた勝木則宗と畠山重忠の美談

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1200年(正治2年)2月2日、御所の侍所に出てきた 源頼家 は、仕えていた勝木則宗を波多野盛通に捕えるよう命じます。 その理由は、前月20日に討たれた 梶原景時 に加担していたため。 盛通は、侍所にいた則宗を後ろから抱えて捕えようとしたが、相撲の達者で大力の持ち主だった則宗は、右手を振り抜いて腰刀を抜いて盛通を刺そうとします。 その横にいたのが 畠山重忠 。 重忠は、座ったまま左手をのばし、腰刀をもった則宗の右腕を掴んで離さず、そのまま腕をへし折ってしまいました。 痛みで気を失った則宗は捕えられ 和田義盛 に預けられます。 義盛が則宗を取り調べると、 梶原景時は、「九州を支配するための宣旨を要求したから、急いで京都にくるように」という書状を九州の一族に送っていたのだという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2月6日、則宗の刑が決められ、則宗を生け捕った盛通の賞について、採決がありました。 担当者は、 大江広元 ・ 三善善信 ・三善宣衡・二階堂行光。 ところが、盛通を恨んでいたという真壁紀内という者が 「則宗を生け捕ったのは、盛通ではなく 畠山重忠 です」 と言い出します。 そこで、重忠を召して話を聞いてみることに。 召された重忠は 「そんな話は知りません。 盛通一人の手柄とうかがっています」 と答えて侍所に戻り、真壁に 「このような讒言は、最も無益な事。 弓矢を携わる武士ならば、私事を忘れるのが本来。 貴殿は盛通を恨んでいるのかもしれないが、ここは盛通が一人で則宗を生け捕ったといってやるのが武士なのではないのだろうか。 盛通は、先祖代々の勇士。 その名を汚すことは、道理に外れたことである」 と説きました。 真壁は赤面して言葉も出ず、聞いてた者は 畠山重忠 に感心したのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 勝木則宗は、筑前国勝木庄(現在の福岡県)の武将。 和田義盛 に預けられていた則宗は、何かで許されて筑前国に帰った後、西面の武士として後鳥羽上皇に仕え、1221年(承久3年)の 承久の乱 では、仕方なく官軍として戦ったのだという。 そのため領地は没収されていたが・・・ 1230年(寛喜2年)2月6日、鶴岡八幡宮の定親が御所に出向いて酒を献上したときの事

2021藤沢七福神めぐり

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2021年の 藤沢七福神めぐり は、1月7日(火)~1月31日(金)。 源頼朝 ・ 源義経 ゆかりの寺社をめぐりながらの福神参拝です。 義経と弁慶 (白旗神社) 開運干支暦手拭 完歩すると「開運干支暦手拭」が1枚200円で購入できます。 デジタル版七福神 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

溺れかけた大串重親を岸に投げ上げた畠山重忠~宇治川の戦い~

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1184年(寿永2年)1月20日、 木曽義仲 追討のため、 源義経 に従って 宇治 を攻めた 畠山重忠 。 『平家物語』によると・・・ 宇治川は、白波がたち、瀬枕では滝のような音を立てて、激しく流れていた。 霧が深く立ち込めた早朝、義経は、一口(いもあらい:芋洗)へ向かうか、河内路に迂回するか、それとも水が引くのを待つか、思案していた。 すると重忠が、 「この川は琵琶湖から流れ出ているので、水が引くことはありません。 去る治承の合戦(宇治平等院の戦い)で、17歳の足利忠綱はこの川を渡りました。 先ずは、重忠が瀬踏みしてみます」 と言って、五百騎余りを並べて水の深さを調べたのだという。 その間、 平等院 方面から駆けてきた 梶原景季 と 佐々木高綱 が先陣を争って宇治川へ入っていく。 この先陣争いでは、高綱が勝ち、  「宇多天皇より九代の後胤、近江国の住人、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣!」と名乗っている。 その後、重忠も五百騎余りを川にうち入れて渡っていった。 しかし、向こう岸から山田次郎が放った矢が重忠の馬の額を深く突き刺した。 弓を杖の代わりにして馬から降りた重忠は、兜の手先まで押し寄せてくる波をもろともせず、川底に潜って、向こう岸までたどり着いた。 そして、岸に上がろうとしたとき、背中を力強く掴む者がいた。 重忠が「誰だ」と問うと「重親です」と答えた。 さらに「大串か」と問うと「そうでございます」と答えた。 大串重親は、重忠の烏帽子子。 「あまりに水の流れが速く、馬を川中で押し流されてしまいました。 力が及ばず、重忠様にくっついておりました」 と語る大串に重忠は、 「お前たちのような者は、いつまでも重忠に助けられるのだな」 と言って、大串を掴んで岸の上に投げ上げた。 放り投げられた大串は・・・ 立ち上がり、太刀を抜いて額にあて、大声を上げて、 「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣!」 と名乗ったのだという。 敵も味方もこれを聞いて、いっせいにどっと笑ったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大串重親(おおぐししげちか)は、武蔵国大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本拠とする武将。 1189年(文治5年)の 奥州合