別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年1月5日火曜日

梶原景時の変で生け捕られた勝木則宗と畠山重忠の美談


1200年(正治2年)2月2日、御所の侍所に出てきた源頼家は、仕えていた勝木則宗を波多野盛通に捕えるよう命じます。

その理由は、前月20日に討たれた梶原景時に加担していたため。

盛通は、侍所にいた則宗を後ろから抱えて捕えようとしたが、相撲の達者で大力の持ち主だった則宗は、右手を振り抜いて腰刀を抜いて盛通を刺そうとします。


その横にいたのが畠山重忠

重忠は、座ったまま左手をのばし、腰刀をもった則宗の右腕を掴んで離さず、そのまま腕をへし折ってしまいました。

痛みで気を失った則宗は捕えられ和田義盛に預けられます。

義盛が則宗を取り調べると、

梶原景時は、「九州を支配するための宣旨を要求したから、急いで京都にくるように」という書状を九州の一族に送っていたのだという。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2月6日、則宗の刑が決められ、則宗を生け捕った盛通の賞について、採決がありました。

担当者は、大江広元三善善信・三善宣衡・二階堂行光。

ところが、盛通を恨んでいたという真壁紀内という者が

「則宗を生け捕ったのは、盛通ではなく畠山重忠です」

と言い出します。

そこで、重忠を召して話を聞いてみることに。

召された重忠は

「そんな話は知りません。

盛通一人の手柄とうかがっています」

と答えて侍所に戻り、真壁に

「このような讒言は、最も無益な事。

弓矢を携わる武士ならば、私事を忘れるのが本来。

貴殿は盛通を恨んでいるのかもしれないが、ここは盛通が一人で則宗を生け捕ったといってやるのが武士なのではないのだろうか。

盛通は、先祖代々の勇士。

その名を汚すことは、道理に外れたことである」

と説きました。

真壁は赤面して言葉も出ず、聞いてた者は畠山重忠に感心したのだといいます。


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勝木則宗は、筑前国勝木庄(現在の福岡県)の武将。

和田義盛に預けられていた則宗は、何かで許されて筑前国に帰った後、西面の武士として後鳥羽上皇に仕え、1221年(承久3年)の承久の乱では、仕方なく官軍として戦ったのだという。

そのため領地は没収されていたが・・・

1230年(寛喜2年)2月6日、鶴岡八幡宮の定親が御所に出向いて酒を献上したときの事。

定親が連れてきた稚児の中に則宗の子がいて、将軍の前で踊り、北条時房北条泰時三浦義村などの同席者を喜ばせました。

そして、2月8日、泰時の配慮で、勝木則宗の本領が返されたのだという。



梶原景時の変

梶原景時

畠山重忠






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