『平治物語』によると・・・
1160年(平治2年)1月5日朝、源義朝に仕えていた金王丸が、常盤御前の許にやって来た。
馬から飛んで下り、しばらくは涙に暮れていた金王丸。
そして、
「この三日の夜明け前に、尾張国野間で、長田忠致によって、義朝様が討たれました」
と話した。
聞き終わらないうちに、涙ぐむ常盤御前と幼い三人の子どもたち。
金王丸は、朝長(義朝の次男)と源義隆(義家の七男)が討たれたことも話した。
金王丸の話を聞いた常盤御前は、三人の子の行く末を案じて伏してしまったが、金王丸は泣きながら、
「義朝様は、道中、子どもたちのことだけを心配しておられたので、誰かが知らせなくてはと思い、取るに足りない命をながらえてやって来ました。
義平様(義朝の長男)も頼朝様(義朝の三男)も、捕らわれてしまったでしょう。
幼い子たちはさらに望みがありません。
ならば、長年お供した私が僧となって、義朝様の菩提を弔うつもりです」
と言って、立ち去ったのだという。
その後、常盤御前と三人の子は、大和国に逃れた後、平清盛のいる六波羅へ出頭。
助命され、長男の今若は醍醐寺で、次男の乙若は園城寺で出家。
三男の今若は、常盤御前が再婚した一条長成に育てられ、11歳の時に鞍馬寺に預けられた。
義朝の長男義平は、六条河原で斬首。
三男の頼朝は、伊豆国の蛭ヶ小島に流された
そして、金王丸は、出家して土佐坊昌俊と名乗ったのだという。
のちに、源義経を襲撃する土佐坊昌俊と同一人物とも・・・
義朝の長男義平は、六条河原で斬首。
三男の頼朝は、伊豆国の蛭ヶ小島に流された
そして、金王丸は、出家して土佐坊昌俊と名乗ったのだという。
のちに、源義経を襲撃する土佐坊昌俊と同一人物とも・・・
(東京都渋谷区)
金王丸は、渋谷重家の子と伝えられ、氏神の金王八幡宮には、金王丸の御影堂が建てられている。
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鎌倉との繋がりを求めて。