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頼朝通信~以仁王の令旨~

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『吾妻鏡』の記録は、序文のあと、以仁王の令旨から始まります。 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は、 源頼政 のすすめで、全国の源氏に 平家打倒の令旨 を発しました。 頼政は、夜になって息子の仲綱とともに以仁王のところに行って、「頼朝などを味方にして、平清盛から政権を取り戻しましょう」と申し上げたのだとか。 平家打倒の令旨が発出されると・・・ ちょうど京都にいたという 源為義 の子 行家 が、「まず伊豆の頼朝に伝え、その後、他の源氏にも伝えるように」と命じられています。 以仁王に令旨を発するようすすめた源頼政は摂津源氏。 河内源氏の祖頼信の兄頼光の子孫。 1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れた頼朝は、翌年、伊豆国へ流されますが、頼政が伊豆守だったからなのかもしれません。 以仁王

以仁王が平家打倒の令旨を発出した日

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子以仁王は、 源頼政 のすすめによって、全国の源氏に平家打倒の令旨を発しました。 その内容は、壬申の乱における天武天皇の前例に倣い、王位の簒奪を謀る反逆者・平清盛とその一族を追討し、皇位に就くことを宣言するもの。 ※『吾妻鏡』では、第二皇子となっています。 令旨発出後、以仁王と 源頼政 も挙兵しますが、平等院の戦いで頼政が討死、辛うじて落ち延びた以仁王も南山城の加幡河原で平家の追討軍に討たれてしまいます。 ただ、以仁王の発した令旨によって、8月17日には伊豆の 源頼朝 が挙兵。 木曽では 木曽義仲 が、甲斐では 武田信義 が挙兵しています。

今日は鶴岡八幡宮で静が舞った日

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 静は京の白拍子。 源義経が愛した女性です。 源頼朝と不仲となった義経が都を落ちるときに行動を共にしますが・・・ 義経と静は吉野で別れます。 義経と別れた後、捕らえられてしまった静は、母の磯禅師とともに鎌倉に送られてきます。 そして、頼朝の命で 鶴岡八幡宮 で舞いました。 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき 義経を慕う今様を歌いながら舞った静。 その舞に参列した者のほとんどが心を動かされたようです。 頼朝は激怒したそうですが・・・ 毎年4月の 鎌倉まつり では 「静の舞」 が奉納されますが、残念ながら、今年は中止となっています。 鎌倉に行けることを祈りつつ

緊急事態宣言!

安倍首相は、本日、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を発出しました。 重要なのは、早い・遅いの問題ではなく、コロナをどう収束に向かわせるか。 終息などという言葉は、その後。 国民一人ひとりの自覚をもった行動が求められています。

国重文となる奪衣婆坐像~外出は危険だから…自宅で北鎌倉:円応寺~

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 亡者が三途の川を渡り終えると、そこには奪衣婆がいて、亡者は着ている衣をはぎとられるのだとか・・・ 円応寺 の「木造奪衣婆坐像」は、2020年(令和2年)3月19の文化審議会で、すでに重要文化財に指定されている 「木造初江王坐像」 ・ 「木造閻魔王坐像」 ・「木造倶生神坐像」に追加されることとなりました。 ※円応寺は拝観を休止しています。

鎌倉:光明寺大殿の保存修理工事(半解体修理)

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 光明寺 の 本堂 (大殿)は、1698年(元禄11年)に建てられました(国の重要文化財)。 その後、1719年(享保4年)、1770年(明和7年)、1797年(寛政9年)、1823年(文政6年)、1950年(昭和25年)、1971年(昭和46年)に修理が行われてきたそうです。 前回の修理から50年。 10年計画の保存修理工事が始まりました。 工事中は素屋根が建設され拝観できなくなりますが、工事の様子を案内する機会も検討されているようです。 本尊の阿弥陀如来及び諸尊像は 開山堂 に移されています。 大殿工事に伴い 三尊五祖の石庭 は拝観できません。

外出は危険だから…自宅で鶴岡八幡宮その2:静の舞

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 『吾妻鏡』と『北条九代記』によると・・・ 1186年(文治2年)4月8日、 鶴岡八幡宮 で舞った 静御前 。 若宮の回廊に舞台が設置され、工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当。 静は、白雪曲(はくせっきょく・古琴曲)に舞うかのごとく白い袖をひるがえし、歌声は黄竹子(こうちくし・呉声歌曲)を歌いあげるかのように美しく、その声は空いっぱいに響き渡り、梁の塵を動かすほどの見事さで、見ていた者は上下の別なく感動。 しかし、静が歌ったのは 義経 を慕う歌。 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき (吉野山の峰の白雪を踏み分けて、山深くお入りになってしまった義経様の跡が恋しい) しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (糸を繰り返し巻いてできる苧環(おだまき)のように、時をも繰り返して、華やかであった昔と悲しい今を変えることができればよいのに) 頼朝は、 「八幡宮の御宝前で芸を披露するなら、鎌倉幕府の永遠の栄華を祝うべきであるのに、はばかることもなく義経を恋い慕って、離別の悲しさを歌うとは、とんでもない」 として激怒しますが・・・ 政子は頼朝にこう言います。 「かつて流人として伊豆にいらっしゃったとき、あなたと私は結ばれましたが、『平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる』と恐れた父の時政は、私をひそかに家の中に引き込めました。 それでも私はあなたを想い、暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら、あなんたの所へ逃げていったのです。 石橋山の戦い の折には、一人で 走湯権現 に逃れ、あなたの行方を知りたい一心で、夜となく昼となく肝をつぶし、毎日生きた心地もしませんでした。 今の静の胸中は、かつての私の胸中と比べて「そうだろう」と思わせるものです。 静の貞節さを思うと、まことに趣深く感じられます」 この政子の話に頼朝は怒りを解いたのだとか・・・ そして、卯花重(うのはながさね)の衣を脱いで、御簾の外に出すと、静はこれを頂戴してうちかぶり退場したのだといいます。