『吾妻鏡』によれば・・・
1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子以仁王は、源頼政のすすめによって、全国の源氏に平家打倒の令旨を発しました。
その内容は、壬申の乱における天武天皇の前例に倣い、王位の簒奪を謀る反逆者・平清盛とその一族を追討し、皇位に就くことを宣言するもの。
※『吾妻鏡』では、第二皇子となっています。
令旨発出後、以仁王と源頼政も挙兵しますが、平等院の戦いで頼政が討死、辛うじて落ち延びた以仁王も南山城の加幡河原で平家の追討軍に討たれてしまいます。
ただ、以仁王の発した令旨によって、8月17日には伊豆の源頼朝が挙兵。
木曽では木曽義仲が、甲斐では武田信義が挙兵しています。