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秋の大佛次郎茶亭公開~鎌倉~

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大佛次郎茶亭 https://www.yoritomo-japan.com/osaragi-tyatei.htm

2018道灌まつり

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「道灌まつり」 は伊勢原市の観光イベント。 伊勢原市で生涯を閉じた戦国武将・太田道灌にちなんで付けられた名称。 「太田道灌公鷹狩り行列」、「北条政子日向薬師参詣行列」は、毎年、有名人が太田道灌と北条政子に扮して行われています。 今年の太田道灌は千原兄弟の千原せいじさん。 北条政子は南海キャンディーズのしずちゃん。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 太田道灌 (伊勢原市:大慈寺) 太田道灌は戦国時代に 扇谷上杉家 の家宰を務めた武将。 相模国粕谷の出身と考えられています(現在の伊勢原市)。 扇谷上杉家 の家名を高める働きをしましたが、主君の上杉定正の 粕谷館 で暗殺されてしまいました。 伊勢原市内には 大慈寺 と 洞昌院 に道灌の墓が残されています。 参考までに、鎌倉の 英勝寺 は道灌の旧蹟に建てられた寺。 英勝寺の裏山にも 道灌の首塚 があります。 道灌の鷹狩りで知られているのは ヤマブキの伝説 です。 太田道灌の墓 (大慈寺) 道灌塚 (洞昌院) 英勝寺 (鎌倉) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条政子 (鎌倉:安養院) 北条政子 は 源頼朝 の妻。 日向薬師 は、次男 実朝 誕生の際には安産祈願所に、長女大姫の病気の際には治癒祈願所となりました。 政子自身も1210年(承元4年)6月8日、翌1211年(建暦元年)7月8日に参詣しています。 日向薬師 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 江戸時代に盛んにおこなわれた大山詣。 招福除災を祈願して木太刀を奉納する風習がありました(納め太刀)。 源頼朝 が 大山寺 に「武運長久」を祈願して太刀を奉納したことに始まりのだと伝えられています。

オクトバーフェストKamakura2018

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「ヴァーチャル・リアリティ永福寺」~鎌倉市歴史文化交流館~

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源頼朝 が建立した 永福寺 。 1192年(建久3年)に 奥州平泉 の 中尊寺 の 大長寿院 を模した二階堂が完成し、1193年(建久4年)には阿弥陀堂が、さらにその翌年には薬師堂が建立されました。 しかし、1405年(応永12年)に焼失。 その後廃絶したものと考えられています。 鎌倉市歴史文化交流館では、幻の大伽藍を臨場感あふれる3DCG映像で再現したデジタルコンテンツ「VR永福寺」が常設公開されています。 一見の価値ありです! 詳しくは、 ↓ https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/documents/vr-youfukuji.pdf 永福寺跡 https://www.yoritomo-japan.com/page042yofukuji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

石橋山で討死した佐奈田与一義忠と郎党の陶山文三

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1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の兵を挙げ、相模国へと進軍した 源頼朝 。 8月23日には 石橋山 に布陣。 先陣を命じられたのは佐奈田与一義忠。 頼朝から「 大庭景親 と 俣野景久 を討って手柄をたてよ」の言われた与一は、郎党の文三とともに壮絶な死を遂げます。 石橋山古戦場 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『源平盛衰記』によると・・・ 「 三浦義明 の弟 岡崎義実 の嫡子佐奈田与一義忠、生年25。我と思わん者は組めや」と叫ぶと15騎ばかりで駆け出します。 一方の平家方は、 大庭景親 、その弟 俣野景久 、 長尾定景 、 曽我祐信 、山内経俊、 稲毛重成 、 熊谷直実 ら73騎。 豪雨の中、まず与一に近づいてきたのは岡部弥次郎。 俣野景久 と思った与一は、組み伏せて首を討ちますが、景久ではなかったため首を谷間に投げ捨て前進を続けます。 そして、目当ての景久と出会った与一。 組み打ちを始めますが、2人ともに馬から落ち、上になり下になりの乱闘が続きます。 やっとのことで景久を組み伏せた与一でしたが、首を取るため刀を抜こうとしても岡部の首を斬ったときの血糊で鞘が抜けません。 そうこうしているうちに景久の従弟の 長尾定景 に討たれてしまいました。 そのころ文三は、谷一つ隔てた峰で戦っていましたが、 稲毛重成 に与一が討たれたことを知らされます。 重成は文三を助けてやろうと「逃げよ」と声をかけますが、文三は敵方に斬り込んで屈強の兵8人を斬り倒した後、討たれたのだといいます。 佐奈田霊社 (石橋山古戦場) 文三堂 (石橋山古戦場) 真田尊 (平塚市) 証菩提寺 (横浜市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉権五郎景政の武勇伝

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鎌倉権五郎景政 は、桓武平氏・平良文の五代の孫。 16歳で 源義家 に従って「後三年の役」に出陣し、右目を射られながら奮戦したという伝説が残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『奥州後三年記』によると・・・ 相模国の鎌倉権五郎景政は先祖より聞えた兵(つわもの)。 僅か16歳で大軍を前にして命を捨てて戦う間、征矢(せや)で右目を射られてしまいます。 ※征矢:戦闘用の矢。 その矢は首を貫いて兜の鉢付の板に達していました。 それでも矢を射て敵を討ち取る奮戦をみせます。 その後、陣に帰えった景政は仰向けに倒れてしまいます。 三浦為継が景政の顔を踏んで矢を抜こうとしますが、景政は倒れ伏したまま刀を抜いて、為継の草摺(くさずり)を掴んで突こうとします。 為継が驚いて「何をする!」と言うと、 景政は、 「弓箭(きゅうせん)にあたって死ぬことは、武人として望むところであるが、生きながら他人の足でこの面を踏まれることは我慢ならない。 お前を仇として、我もここで死ぬつもりだ」 と答えます。 言葉を失った為継は、膝をかがめて顔をおさえて矢を抜いたのだといいます。 多くの者がこれを見聞きして「景政の功名並ぶものなし」と語り合ったのだとか・・・ 御霊神社   https://www.yoritomo-japan.com/page136gorei.htm 鎌倉坂の下の 御霊神社 は、 鎌倉権五郎景政 を祀る社。 景政の屋敷があった場所とも伝えられています。 御霊神社は景政の武勇伝から「目の神様」として信仰されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2018秋の鎌倉~旧華頂宮邸・旧川喜多邸別邸・大佛次郎茶亭の一般公開~

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旧華頂宮邸 洋館内部を見学することができます。 10月6日(土)・7(日) 10:00~15:00 旧川喜多邸別邸 ヨーロッパ映画を日本に紹介した映画事業家・川喜多長政の別邸。 鎌倉市川喜多映画記念館の奥にあります。 10月6日(土)・7(日) 10:00~16:00 大佛次郎茶亭 作家大佛次郎の書斎として使用された建物 10月6日(土) 10:00~16:00 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆