土肥実平が源頼朝に見せた「焼亡の舞」
1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い に敗れた 源頼朝 は、山中を彷徨い、一時、 箱根権現 に身を潜めますが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、 真鶴 から 安房国 へと船出します。 その途中の山上から実平が見たのは、敵将 伊東祐親 が放った火によって、実平の本拠土肥郷が燃える光景でした。 我が家が燃えるのを見た実平は、頼朝の前で即興の謡で舞います。 「八幡大菩薩の光を受けて、平家を滅ぼし天下と四方の海を照らせば、我らの子孫も反映する。 我家は何度でも焼けばよい。 頼朝が天下を取れば、土井の杉山の木で造り替えることができる・・・」 実平は源氏の勝利を信じ、子孫の繁栄を願って舞ったのだいいます。 焼亡の舞 (湯河原町:土肥祭) 実平の舞は 「焼亡の舞」 (じょうもうのまい)と呼ばれます。 「焼亡」とは火事のこと。 上の写真は4月の 土肥祭 で公演された「焼亡の舞」。 9月の 鶴岡八幡宮例大祭 でも演じられる予定です(9月16日)。