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土肥実平が源頼朝に見せた「焼亡の舞」

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1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い に敗れた 源頼朝 は、山中を彷徨い、一時、 箱根権現 に身を潜めますが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、 真鶴 から 安房国 へと船出します。 その途中の山上から実平が見たのは、敵将 伊東祐親 が放った火によって、実平の本拠土肥郷が燃える光景でした。 我が家が燃えるのを見た実平は、頼朝の前で即興の謡で舞います。 「八幡大菩薩の光を受けて、平家を滅ぼし天下と四方の海を照らせば、我らの子孫も反映する。 我家は何度でも焼けばよい。 頼朝が天下を取れば、土井の杉山の木で造り替えることができる・・・」 実平は源氏の勝利を信じ、子孫の繁栄を願って舞ったのだいいます。 焼亡の舞 (湯河原町:土肥祭) 実平の舞は 「焼亡の舞」 (じょうもうのまい)と呼ばれます。 「焼亡」とは火事のこと。 上の写真は4月の 土肥祭 で公演された「焼亡の舞」。 9月の 鶴岡八幡宮例大祭 でも演じられる予定です(9月16日)。

出生の秘密を告げられて鞍馬寺を出た源義経~『義経記』~

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『義経記』によると・・・ 鞍馬寺 に預けられていた牛若( 源義経 )に出生の秘密を告げたのは、牛若の父・ 源義朝 の郎党・鎌田政清の子だったのだといいます。 平治の乱 で父政清が長田忠致に討たれた時は11歳。 母方の親戚に匿われ、19歳で元服して鎌田正近と名乗ります。 21歳のときに出家して九州へ赴き修行をした後、四条室町に住んでいました。 法名は聖門坊。 四条の聖とも呼ばれていたそうです。 鎌田政清の墓 (野間大坊) 鎌田政清は 源義朝 の第一の郎党。 1159年(平治元年)、平治の乱で敗れると、東国で再起を図るため義朝ととも京を脱出し、尾張国野間の長田忠致を頼ったが、忠致の裏切りに遭い、義朝とともに殺害されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 日ごろから、平家の繁栄をよく思っていなかった聖門坊は、源氏に仕えて謀反を起こすことを考えます。 そうしたとき、牛若の噂を耳にした聖門坊は鞍馬に上ります。 聖門坊は牛若にこう話かけます。 「貴方様は、清和天皇より十代の子孫・源義朝様のお子です。 私は、義朝様の乳母子の鎌田政清の子です。 一門の源氏は国々に打ち籠められておられます。 心苦しいこととは思われませんか・・・」 聞いていた牛若が、 「平家全盛の世にこのような話をするのは、騙そうとしているのだろう」 と思っていると、聖門坊は源氏代々の話を詳しく話したのだそうです。 鞍馬寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ それからの牛若は、学問の事は忘れ、平家に反旗をひるがえすことで頭がいっぱいになります。 そして、夜になると、心身を鍛えるため、誰にも知られぬように宿坊を抜け出し、鞍馬山の奥に僧正が谷の 貴船明神 に参り、 「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩」と掌を合はせて、源氏を守ってくれるよう祈り、草木を相手に太刀を振るい心身を鍛錬したのだそうです。 貴船神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、牛若に付き添っていた和泉という法師が、牛若の行動を牛若の宿坊・東光坊の蓮忍に報告すると、牛若の髪を剃るということに決まります。 ただ、牛若は誰かが近づくと刀の柄に手を掛け突き刺そうとしていたので、なかなか髪を剃ることができませんでした。 そこで、覚日坊であれば静な

源頼朝に関係した女性たち~妻・妾・落胤伝説~

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流人時代に結ばれた八重姫 源頼朝 の最初の妻は、 伊東祐親 の三女・八重姫と伝えられています。 1160年(永暦元年)3月、伊豆に流された頼朝は、伊東祐親の監視下に置かれます。 頼朝と八重姫が結ばれたのは、祐親が大番役で上洛している間のことと言われ、二人の間には千鶴丸という男児がいたそうです。 しかし、大番役から戻った祐親が激怒。 千鶴丸は殺され、八重姫は江間小四郎に嫁がされ、頼朝も殺されそうになったのだとか。 頼朝と八重姫の関係については伝承の域を出ませんが、 『吾妻鏡』には・・・ 「1175年(安元元年)、伊東祐親が頼朝を殺そうとし、祐親の次男祐清がそのことを頼朝に教えたため 走湯権現 に逃れることができた」 と記録されているので、頼朝が祐親に殺されそうになったのは確かなことのようです。 ただ、その原因が八重姫とのことにあったのかはわかりません。 音無神社 (伊東市) 音無神社 は、頼朝と八重姫が逢瀬を重ねていたという「おとなしの森」に鎮座する社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 流人時代に結ばれた北条政子 八重姫と別れた後、結婚したのが 北条時政 の娘・ 北条政子 。 長女の大姫が1178年(治承2年)の誕生と考えられていることから、頼朝と政子が結婚したのは1177年(治承元年)頃ではないかと考えられているようです。 1182年(寿永元年)8月12日、長男の頼家誕生。 1186年(文治2年)、次女の三幡誕生。 1192年(建久3年)8月9日、次男の実朝誕生。 蛭ヶ小島 (伊豆の国市) 蛭ヶ小島 は、頼朝が流された所と伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 兄の嫁・祥寿姫 祥寿姫は、頼朝の異母兄・ 源義平 の正室。 1160年(平治2年)1月に義平が六条河原で処刑されたことで未亡人となっていましたが・・・ 1182年(寿永元年)7月頃になると、頼朝は伏見広綱に命じて祥寿姫に恋文を送っています。 しかし、返事がありません。 そこで、父の新田義重にそのことを話してみると・・・ 義重は政子の嫉妬を恐れて、祥寿姫を師六郎という者に嫁がせてしまったのだとか。 『吾妻鏡』の7月14日条には、義重が頼朝に嫌われてしまった事が記録され

北条義時の正室姫の前と比企氏の乱

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姫の前は、比企朝宗の娘。 源頼朝 の御所に勤め、他に並ぶ者のない権勢をもった女官で、しかも、とても美しい容貌で、頼朝のお気に入りだったのだといいます。 そういう素敵な女性でしたので、 北条義時 が惚れてしまい、一年あまりの間、恋文を送っていたそうですが・・・ 全く相手にされなかったようです。 それを見かねた頼朝は・・・ 姫の前に「離別することはないという起請文をとって嫁に行くように」と命じ、二人の間を取り持ったのだとか。 こうして、姫の前は1192年(建久3年)9月25日に義時の正室となり、1193年(建久4年)に北条朝時、1198年(建久9年)に北条重時を産みました。 しかし・・・ 頼朝亡き後、北条氏と比企氏の関係が悪化していきます。 そして、1203年(建仁3年)9月2日、 北条時政 、 政子 、 義時 によって姫の前の実家の比企氏が滅ぼされてしまいます( 比企氏の乱 )。 『吾妻鏡』では、比企氏の乱後の姫の前が動向は不明ですが、 『明月記』には、「源具親の子は北条朝時の同母弟」と記されていることから、姫の前は乱後に義時と離別し、京都で源具親と再婚したものと考えられるようです。 具親との間に産んだ子は輔通と輔時。 輔時はのちに朝時の猶子となっているようです。 1207年(承元元年)3月30日死去。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

藤原秀衡の遺言と奥州藤原氏の滅亡

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藤原秀衡 は奥州藤原氏の第三代当主。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1174年(承安4年)に 鞍馬寺 を出奔して 平泉 へ下ってきた 源義経 を匿い、1180年(治承4年)に 源頼朝 が 挙兵 すると、頼朝のもとへ駆けつける義経に佐藤継信・忠信の兄弟をつけて送り出しました。 その後、 義経 は、 一ノ谷 ・ 屋島 で平家を敗走させ、1185年(元暦2年)3月24日、 壇ノ浦 で平家を滅ぼしますが、間もなく頼朝と対立して逃亡生活を送るようになり、1187年(文治3年)の春頃、再び 平泉 の 秀衡 のもとに戻ってきました。 📎源義経の奥州下り~平治物語~ 📎歴史めぐり源頼朝~義経と涙の対面~ 📎源平合戦 鏡の宿 (源義経元服の地) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 秋になって・・・ 頼朝 は、朝廷に「秀衡が義経を助けて関東に反逆しようとしていること」の申し入れを行ったことで、 秀衡 に対して「院庁下文」が出され、院庁からの使いが派遣されました。 頼朝も鎌倉からも雑役を派遣しています。 秀衡 の回答は「背くつもりはない」という内容だったようですが・・・ 9月4日、頼朝が派遣した雑役が奥州から鎌倉へ戻ります。 その報告では「すでに反逆の準備を進められている」というものだったのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ それから2ヵ月が経った10月29日・・・ 北方の王者・ 藤原秀衡 が 平泉館 で亡くなります。 『吾妻鏡』には、「義経を大将軍として国務せよ」と嫡子の泰衡をはじめとする子らに遺言していたことが記されています。 また、『玉葉』は、長男国衡と次男泰衡に対して「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」と遺言し、 後継者は次男の泰衡(正室の子)とし、長男国衡(側室の子)には、秀衡の正室を娶らせ、互いに異心をもたない旨の起請文を書かせ、義経にも起請文を書かせたことを伝えています。 柳之御所遺跡 ~平泉館跡~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、 秀衡 の跡を継いだ泰衡は・・・ 頼朝 からの圧力に屈し、 義経 の首を頼朝に差し出すことで平泉の平和を守ろうと考えるようになります。 そして、1189年(文治5年)閏4月30日、 義経 の 衣川館 を襲撃し、