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1174年(承安4年)に鞍馬寺を出奔して平泉へ下ってきた源義経を匿い、1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵すると、頼朝のもとへ駆けつける義経に佐藤継信・忠信の兄弟をつけて送り出しました。
その後、義経は、一ノ谷・屋島で平家を敗走させ、1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦で平家を滅ぼしますが、間もなく頼朝と対立して逃亡生活を送るようになり、1187年(文治3年)の春頃、再び平泉の秀衡のもとに戻ってきました。
📎源義経の奥州下り~平治物語~
📎歴史めぐり源頼朝~義経と涙の対面~
📎源平合戦
(源義経元服の地)
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秋になって・・・
頼朝は、朝廷に「秀衡が義経を助けて関東に反逆しようとしていること」の申し入れを行ったことで、秀衡に対して「院庁下文」が出され、院庁からの使いが派遣されました。
頼朝も鎌倉からも雑役を派遣しています。
秀衡の回答は「背くつもりはない」という内容だったようですが・・・
9月4日、頼朝が派遣した雑役が奥州から鎌倉へ戻ります。
その報告では「すでに反逆の準備を進められている」というものだったのだそうです。
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それから2ヵ月が経った10月29日・・・
北方の王者・藤原秀衡が平泉館で亡くなります。
『吾妻鏡』には、「義経を大将軍として国務せよ」と嫡子の泰衡をはじめとする子らに遺言していたことが記されています。
また、『玉葉』は、長男国衡と次男泰衡に対して「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」と遺言し、
後継者は次男の泰衡(正室の子)とし、長男国衡(側室の子)には、秀衡の正室を娶らせ、互いに異心をもたない旨の起請文を書かせ、義経にも起請文を書かせたことを伝えています。
~平泉館跡~
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しかし、秀衡の跡を継いだ泰衡は・・・
頼朝からの圧力に屈し、義経の首を頼朝に差し出すことで平泉の平和を守ろうと考えるようになります。
そして、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を襲撃し、義経を自刃に追い込みました。
(衣川館跡)
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義経の首は鎌倉へ送られ、6月13日、腰越の浜で和田義盛と梶原景時が立ち会い首実検が行われました。
そして・・・
7月19日、頼朝は泰衡を討つため鎌倉を出発。
8月11日、泰衡は平泉館を焼き払い逃亡。
9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。
📎歴史めぐり源頼朝~奥州藤原氏の滅亡~
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