投稿

平清経が奪った後白河法皇の御剣「鵜丸」と「吠丸」

イメージ
『吾妻鏡』によると・・・ 1183年(寿永2年)7月25日、平家一門が都落ちする際、平清経は 後白河法皇 の 法住寺殿 から「吠丸」(ほえまる)と「鵜丸」(うのまる)という剣を奪っていったのだと言います。 平清経は、 平清盛 の嫡男重盛の三男。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 「吠丸」は 源義朝 が 後白河法皇 に献上した剣で、鞘には鳩の模様が施されていたそうです。 壇ノ浦 で平家が滅亡した後、その剣を大江公朝が見つけ、 後白河法皇 に献上されました。 それを聞いた 源頼朝 は、1185年(文治元年)10月19日、公朝に感謝の書状を出しています。 『保元物語』によると・・・ 「鵜丸」は、白河院、鳥羽院、崇徳院と伝えられた剣。 白河院が、 神泉苑 での管弦の催しの後で鵜飼いを見ていた時のこと。 特に優れているという鵜が、二三尺ほどの物を「水中に潜っては何度も落とすこと」を繰り返します。 四五度目にやっと捕えました。 それを見ると長覆輪(ながふくりん)の太刀でした。 白河院は、 「霊剣に違いない。天下の珍宝である」 として、その太刀に「鵜丸」と名付けたのだそうです。 その後の1156年(保元元年)、鳥羽院、崇徳院と伝えられた剣は、 源為義 に与えられました。 間もなく為義は 保元の乱 に敗れてしまいますので、「鵜丸」は朝廷に返されているようです。 『吾妻鏡』によると・・・ 「鵜丸」は、 壇ノ浦の戦い 後、鎮西で戦後処理を行っていた 源範頼 が探し出し、1185年(文治元年)9月27日に 後白河法皇 へ献上されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『平家物語』に登場する「吠丸」 『平家物語』によると・・・ 「吠丸」は、源満仲が作らせたが二つ剣のうちの一つ。 罪人を切らせたところ、膝まで切れたことから「膝丸」と名付けられます。 もう一つは、 源頼朝 が初陣で帯びたという「髭切」で、罪人を切らせたところ、髭まで切れたことから名付けられました。 「膝丸」は、 源頼光 が土蜘蛛を退治して以降「蜘蛛切」と改められ、 源為義 の頃には夜に蛇の泣くような声で吠えたので「吠丸」と名を改められます。 その後、為義から熊野別当行範へ、行範から熊野権現へ、熊野別当

壇ノ浦で捕らえられた平時忠・時実父子と源義経

イメージ
平時忠は、平家全盛時に「平家にあらずんば人にあらず」と言い放ったという公家。 『吾妻鏡』によると・・・ 時忠は、1185年(元暦2年)3月、 壇ノ浦の戦い で捕らえられ、4月26日、平宗盛らとともに京都へ送られ、 源義経 邸に入りました。 5月20日、能登国へ流罪、長男の時実は周防国へ流罪と決定。 死罪を免れることができたのは、「三種の神器の鏡が無事に返ってきたのは、時忠の手柄だったから」という理由のようです。 (参考: 壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経 ) ただ・・・ 義経 は時忠の娘を側室とし、流罪が決定した時忠らを京都に置いたままにしていたそうです。 9月2日、 源頼朝 に義経の動向を探るよう命じられた 梶原景季 は、9月12日、京都に入ると、早速、流罪となった者について話をします。 すると・・・ 9月23日、覚悟をしたのか、時忠が配所の能登国へ下向します。 しかし、時実は・・・ 11月3日、 頼朝 の厳しい責めから逃れるため、 義経 は都落ちすることとなりますが、その従者の中に時実がいました。 11月6日、義経一行は、大物浦から船出しますが強風で難破。 一行はばらばらになり、時実は京都へ戻る途中で捕らえられています。 12月1日、頼朝は、11月25日に入洛していた 北条時政 に、流罪となっても配所へ行かない者を探し出して、在京の御家人に身柄を預けるよう命じます。 翌1186年(文治2年)正月5日、時実は鎌倉へ送られます。 時実は何の弁明もしなかったそうです。 ただ、公家の罪を鎌倉が決定することはできないので、京都へ返されることとなります。 そして、正月25日、時実は上総国流罪となったのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その後、平時忠は、1189年(文治5年)2月24日、配所の能登国で死去。 その年の4月15日、平時実は赦免され京都に戻っています。 義経 の側室となったという時忠の娘は、時忠が能登国へ赴き、義経が都落ちしてから、どうなったのかは不明。

星谷寺~坂東三十三箇所第八番札所~

イメージ
星谷寺 (しょうこくじ)は、 坂東三十三箇所 第八番札所。 梵鐘は、国の重要文化財。 佐々木信綱による寄進で、関東以北では2番目に古い鐘。 本尊は、行基の聖観音像。 宝篋印塔 宝篋印塔は、市の文化財。 星の井戸 観音さまの霊異によって昼でも星が映って見えるのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

宋から来た禅僧:蘭渓道隆~建長寺開山忌~

イメージ
建長寺 開山の蘭渓道隆は、中国宋の禅僧。 宋で修行していた 泉涌寺 の月翁智鏡との縁から、1246年(寛元4年)に宋から商船に乗って日本(筑前博多)に渡ってきました。 博多の円覚寺は道隆が開いたのだと伝わります(現在は聖福寺塔頭)。 泉涌寺 その後しばらくは京都にいたようですが、活躍の場を求めて鎌倉に下向。 壽福寺 に寓居します。 鎌倉の地を踏んだのは、1248年(宝治2年)頃のことといわれています。 壽福寺 それを知った五代執権 北条時頼 は、道隆を 常楽寺 に移して禅の道場を開きました。 そのため、常楽寺は「建長寺の根本」といわれています。 常楽寺 1253年(建長5年)、時頼は 建長寺 を創建。 道隆は開山に迎えられました。 建長寺 道隆は、元(中国)の密偵との疑いをかけられ伊豆に逃れた時期もあります。 そのときに住したのが 修禅寺 でした。 修禅寺 その後、 壽福寺 、禅興寺(現在は支院の 明月院 のみ。)などに住し、京都 建仁寺 にも住しました。 その間、 叡山 僧徒の反抗にあって甲斐( 東光寺 )に流されたこともありました 建仁寺 建長寺西来庵 東光寺 が、1278年(弘安元年)4月、再び 建長寺 に戻り、その年の7月24日に没しています。 建長寺開山忌 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/kaisanki-kentyoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夏休み鎌倉計画! 夏休み江の島計画!

江の島にとまっていた「にっぽん丸」

イメージ
☆ ☆ ☆ ☆ ☆