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義経と景時の先陣争い~壇ノ浦の戦い~

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源平最後の決戦の日、 源義経 と 梶原景時 が衝突します。 『平家物語』によれば・・・ 軍議の席で梶原景時は先陣を望むのですが・・・ 義経は「義経がいなければ」と断ります。 景時が「あなたは大将軍ですよ」と言うと、 「とんでもないこと。大将軍は鎌倉殿( 源頼朝 )。自分はその命に従っているだけ。貴殿らと同じである」 と言い返す義経。 すると景時は、 「生まれつき、ここ方は侍の主君にはなれない」 とつぶやきます。 それを聞いた義経が「日本一の愚か者」と言って太刀の柄に手をかけると、景時は「自分にとっても主君は鎌倉殿のみ」と言い返して太刀の柄に手をかけます。 景時の周りに子の景季、景高、景家が集まると、佐藤忠信、伊勢義盛、弁慶といった一人当千の者が景時らを取り囲みます。 あわや同士討ちとなるところを、義経には 三浦義澄 が、景時には 土肥実平 がかみつき、 「この大事を前に同士討ちをすれば、平家は勢いづくことでしょう。 このことが鎌倉殿に聞こえたなら、ただではすみません」 と諌めて収まりました。 それ以降、景時は義経を憎み、ついには讒言して義経を殺すことになったのだとか・・・。 壇ノ浦古戦場 https://www.yoritomo-japan.com/dannoura/dannoura.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鵯越の逆落とし:源義経の奇襲戦法~一ノ谷の戦い~

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1184年(寿永3年)2月7日、 一ノ谷の戦い が始まります。 源範頼 が生田口から攻寄せ、源氏の白旗と平家の赤旗が入り交じっての戦いは、山を響かせて、地を動かすかのようだったといいます。 その頃、 源義経 は精鋭部隊70騎を引き連れて鵯越にいました。 そこは、猪・鹿・兎・狐の他は通ったことのない険しい所だったようです。 源平合戦図屏風 ( 赤間神宮 ) 『平家物語』によれば・・・ 義経 は、まず鞍を置いた馬を追い落として見ました。 足を折って転げ落ちる馬もあれば、何事もなく下りる馬もありました。 三頭が平盛俊の屋形の上に下り着き、身震いしていたそうです。 それを見た義経は、 「義経を手本にせよ」 といって30騎ばかりを駆け下ろさせました。 その後を大軍が一気に駆け下りていきます。 後から下る者たちの鎧と先に下る者の鎧が当たるほどで、砂地なので流れ落ちるように下り、壇になっているところで待機。 そこから先はさらに険しく落ち込んでいます。 しかし、引き返すすべもなく・・・ 皆が立ちすくんでいるところへ、 「三浦では朝夕このような所を駆けめぐっている。 ここは馬場のようなものだ」 と言って佐原義連が駆け下りていったので、皆が続いて駆け下りたのだとか。 『源平盛衰記』によると・・・ 土地の猟師・鷲尾義久に案内された義経は、「鹿が通るところを馬が通れぬはずがない」といって一気に駆け下り、 畠山重忠 は馬をいたわって背負って下りたのだとか。 『吾妻鏡』によれば・・・ この義経の奇襲で平家軍は敗走したのだそうです。 佐原義蓮 『前賢故実』より (国会図書館デジタルコレクション) 畠山重忠像 (埼玉県:畠山重忠公史跡公園) 畠山重忠 が鵯越の逆落しの際に愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/hatakeyama-sigetada.html ただ、『吾妻鏡』の記録では、 畠山重忠 は 生田の森 の戦いに登場するので、義経ではなく、範頼に従っていたものと思われます。 一ノ谷古戦場 https://www.yoritomo-japan.co

海上渡御~江の島天王祭~2018/07/08

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今日は 江の島八坂神社 の 神幸祭 。 参道を下りてきた神輿が海へ入っていきます。 この後、神輿が海を渡り、対岸の 小動神社 の神輿と行合います。 江の島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源義経が歴史上で輝いていた1年

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源義経 は、1159年(平治元年)、河内源氏の棟梁 源義朝 の九男として誕生。 母は 常盤御前 。 鎌倉に武家政権を樹立した 源頼朝 は異母兄。 生まれた年に起こった 平治の乱 で父の 義朝 が 平清盛 に敗れると、母や兄二人(今若・乙若)と大和国へ逃れますが、のちに京都へ戻り、11歳のときに 鞍馬寺 に入りました。 鞍馬寺 (京都) しかし、出家することを嫌い、1174年(承安4年)、16歳で 奥州平泉 へ下って藤原秀衡を頼ります。 1180年(治承4年)、 源頼朝 が 挙兵 すると、わずかな郎党を引き連れ頼朝のもとへ参じました。 義経が歴史上の表舞台に登場するのは 宇治川の戦い 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 宇治川 (京都) 1184年(寿永2年)1月、 源頼朝 は、弟の 範頼 と 義経 に 木曽義仲 追討を命じます。 1月20日、範頼は 瀬田 から、義経は 宇治 から京の義仲を攻めます。 京を落ちた義仲は、粟津で討死しました。 瀬田の唐橋 (大津) 宇治川先陣の碑 (宇治) 木曽義仲の墓 (大津・義仲寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 木曽義仲を討った 範頼 と 義経 。 次は平家の拠る 一ノ谷 を攻めます。 一ノ谷古戦場 1184年(寿永3年)2月7日、 範頼 率いる5万6千騎が大手(生田)から攻め寄せ、 義経 率いる精鋭部隊が奇襲をかけたことで、平家軍は混乱し、総大将の平宗盛らは 屋島 へと逃れて行きました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 一ノ谷を 範頼 と 義経 に攻められ大敗を喫した平家は、讃岐国の 屋島 を本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いていました。 屋島古戦場 1185年(元暦2年)2月16日、讃岐国の平家を攻めるため、 義経 を先陣とする軍兵が出陣。 渡部の津から船で四国に渡った義経は、2月19日、 屋島 の平家を奇襲。 平宗盛は、安徳天皇と一門を連れて海上の船へと逃亡。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 屋島 で義経の奇襲によって敗れた平家は、瀬戸内海を転々としたのち彦島に本陣を布きます。 壇ノ浦古戦場 そして、1185年(元暦2年)3月24日、 壇ノ浦 で源平最後の合戦が繰り広げられました。 その結果・・・平家軍の敗北。 幼い安徳天皇をはじめ