『吾妻鏡』によれば・・・
1184年(寿永3年)2月7日、一ノ谷の戦いが始まります。
源範頼が生田口から攻寄せ、源氏の白旗と平家の赤旗が入り交じっての戦いは、山を響かせて、地を動かすかのようだったといいます。
その頃、源義経は精鋭部隊70騎を引き連れて鵯越にいました。
そこは、猪・鹿・兎・狐の他は通ったことのない険しい所だったようです。
源平合戦図屏風
(赤間神宮)
『平家物語』によれば・・・
義経は、まず鞍を置いた馬を追い落として見ました。
足を折って転げ落ちる馬もあれば、何事もなく下りる馬もありました。
三頭が平盛俊の屋形の上に下り着き、身震いしていたそうです。
それを見た義経は、
「義経を手本にせよ」
といって30騎ばかりを駆け下ろさせました。
その後を大軍が一気に駆け下りていきます。
後から下る者たちの鎧と先に下る者の鎧が当たるほどで、砂地なので流れ落ちるように下り、壇になっているところで待機。
そこから先はさらに険しく落ち込んでいます。
しかし、引き返すすべもなく・・・
皆が立ちすくんでいるところへ、
「三浦では朝夕このような所を駆けめぐっている。
ここは馬場のようなものだ」
と言って佐原義連が駆け下りていったので、皆が続いて駆け下りたのだとか。
『源平盛衰記』によると・・・
土地の猟師・鷲尾義久に案内された義経は、「鹿が通るところを馬が通れぬはずがない」といって一気に駆け下り、畠山重忠は馬をいたわって背負って下りたのだとか。
『吾妻鏡』によれば・・・
この義経の奇襲で平家軍は敗走したのだそうです。
佐原義蓮
『前賢故実』より
(国会図書館デジタルコレクション)
(埼玉県:畠山重忠公史跡公園)
畠山重忠が鵯越の逆落しの際に愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。
https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/hatakeyama-sigetada.html
ただ、『吾妻鏡』の記録では、畠山重忠は生田の森の戦いに登場するので、義経ではなく、範頼に従っていたものと思われます。
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