源義経は、1159年(平治元年)、河内源氏の棟梁源義朝の九男として誕生。
母は常盤御前。
鎌倉に武家政権を樹立した源頼朝は異母兄。
生まれた年に起こった平治の乱で父の義朝が平清盛に敗れると、母や兄二人(今若・乙若)と大和国へ逃れますが、のちに京都へ戻り、11歳のときに鞍馬寺に入りました。
(京都)
しかし、出家することを嫌い、1174年(承安4年)、16歳で奥州平泉へ下って藤原秀衡を頼ります。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、わずかな郎党を引き連れ頼朝のもとへ参じました。
義経が歴史上の表舞台に登場するのは宇治川の戦い。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(京都)
1184年(寿永2年)1月、源頼朝は、弟の範頼と義経に木曽義仲追討を命じます。
1月20日、範頼は瀬田から、義経は宇治から京の義仲を攻めます。
京を落ちた義仲は、粟津で討死しました。
(大津)
(宇治)
(大津・義仲寺)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
木曽義仲を討った範頼と義経。
次は平家の拠る一ノ谷を攻めます。
1184年(寿永3年)2月7日、範頼率いる5万6千騎が大手(生田)から攻め寄せ、義経率いる精鋭部隊が奇襲をかけたことで、平家軍は混乱し、総大将の平宗盛らは屋島へと逃れて行きました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
一ノ谷を範頼と義経に攻められ大敗を喫した平家は、讃岐国の屋島を本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いていました。
1185年(元暦2年)2月16日、讃岐国の平家を攻めるため、義経を先陣とする軍兵が出陣。
渡部の津から船で四国に渡った義経は、2月19日、屋島の平家を奇襲。
平宗盛は、安徳天皇と一門を連れて海上の船へと逃亡。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
屋島で義経の奇襲によって敗れた平家は、瀬戸内海を転々としたのち彦島に本陣を布きます。
そして、1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦で源平最後の合戦が繰り広げられました。
その結果・・・平家軍の敗北。
幼い安徳天皇をはじめ、平家一門の多くが入水しますが、総大将の平宗盛とその子清宗は、死に切れず捕虜とされました。
(壇ノ浦古戦場)
(壇ノ浦古戦場)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
義経の活躍によって、1180年(治承4年)から続いていた源平の戦いは終わりました。
鎌倉に凱旋して頼朝に褒められるはずだった源平合戦の英雄義経。
しかし・・・
5月、捕らえた宗盛と清宗の父子を護送して鎌倉に凱旋しようとした義経を待っていたのは鎌倉追放。
腰越の満福寺から弁明の手紙(腰越状)を出しますが許されず、6月19日、再び宗盛と清宗の父子を護送して京都へ戻りました(宗盛と清宗は途中の篠原宿で処刑しています。)。
(野洲)
10月17日には、頼朝が派遣した土佐坊昌俊に六条堀川館を攻められ、11月6日都落ち。
大物浦より西国へ向かおうとしますが、暴風雨により失敗。
その後は逃亡生活を続けながら、1187年(文治3年)春、再び奥州平泉の藤原秀衡を頼りました。
しかし、1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に襲撃されて自害。
31歳でした。
(平泉・衣川館跡)
(京都・鞍馬寺)
奥州平泉の衣川館で最期を遂げた義経の魂は、幼少時代を過ごした鞍馬山へ戻ったのだといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
源平合戦の英雄として知られる源義経ですが、誕生から1180年(治承4年)に頼朝と出会うまでの間についての詳細は不明であり、1183年(寿永2年)に京に派遣されるまで、鎌倉でどのような暮らしをしていたかも不明。
また、壇ノ浦の戦い後、頼朝との仲がさらに悪くなり、都落ち後、どのような行動をとって奥州へ下ったのかも不明。
義経が歴史上で輝いていたのは、宇治川の戦いから壇ノ浦の戦いまでの約1年の間だけでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆