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江川家の菩提寺・・・伊豆の国市:本立寺

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本立寺 伊豆の国市の 本立寺 は、平安時代末から続く名家・ 江川家 の菩提寺。 鐘楼の梵鐘は、何故か鎌倉の 東慶寺 にあったもの。 この梵鐘を鋳造させた覚海尼が鎌倉幕府滅亡後に伊豆へ移したものと考えられています。 日蓮像 江川家十六代英親は、日蓮に帰依し日久の法号を与えられました。 仏殿位牌堂 江川英龍像 三十六代英龍(担庵)は、世界文化遺産となった 韮山反射炉 の建設を開始した人物。 本立寺 ・・・・・・・・・・・ 源頼朝配流の地 (伊豆韮山の旅) https://www.yoritomo-japan.com/izu-nirayama.htm 世界文化遺産:韮山反射炉 https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-hansharo.htm

江川邸・・・伊豆の国市

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江川邸 は、平安時代末に伊豆国に定住した江川氏の邸宅。 江川氏は、 源頼朝 や 北条早雲 とも深く関わり、江戸時代には韮山代官を世襲してきました。 世界文化遺産となった 韮山反射炉 は、三十六代江川英龍の建言によって造られたものです。 井戸 生活用水や醸造用として使用。 土間 生き柱 土間にある「生き柱」は、この地に定住した際に、生えていた欅をそのまま邸宅の柱にしたものと考えられています。 屋根の構造 日蓮の棟札 棟札箱の中には、1261年(弘長元年)、 伊豆流罪 となった 日蓮 が書いたという防火符が納められ、以来、江川邸は火災にあわなかったという。 西蔵 南米蔵と北米蔵 武器庫 パン祖の碑 江川氏は自邸で兵が携行する乾パンを製造していました。土間にパン釜が展示されています。 裏門 江川邸はTBS系列のドラマ「JIN-仁」のロケ地として使用されています。 江川邸 ・・・・・・・・・・・ 源頼朝配流の地 (伊豆韮山の旅) http://www8.plala.or.jp/bosatsu/izu-nirayama.htm 世界文化遺産:韮山反射炉 https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-hansharo.htm

北条早雲の韮山城2015/07/22

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韮山城址からの富士 韮山城 は、戦国大名の 北条早雲 の居城。 1493年(明応2年)、この城を奪い取った早雲は、1495年(明応4)には相模国へと進出し、 小田原城 を奪取しています。 ただ、早雲は、1519年(永正16年)に没するまで 韮山城 を居城としていました。 熊野神社 (早雲が城内に祀った神社) 韮山城址 ・・・・・・・・・・・ 韮山城址 https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-jyo.htm 世界文化遺産:韮山反射炉 https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-hansharo.htm

源頼朝の配流地・・・伊豆の国市:蛭ヶ小島2015/07/22

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蛭ヶ小島 1159年(平治元年)、 平治の乱 が勃発します。 源頼朝 の初陣でしたが・・・ 平清盛に敗れ、父・ 義朝 は 尾張国 で 長田忠致 の裏切りに遭い暗殺され、頼朝は捕えられて、翌年、伊豆国流罪となりました。 蛭ヶ小島 は、頼朝が流された地だったと伝えられています。 頼朝14歳のときでした。 それから約20年間を伊豆国で過ごした頼朝・・・ やがて、 頼朝 は 北条時政 の娘・ 政子 と結婚します。 1177年(安元3年・治承元年)頃のことではなかったかと考えられているようです。 蛭ヶ小島 に建てられた頼朝と政子の像は、 富士 を見つめています。 無料休憩所  韮山城址 より ・・・・・・・・・・・ 源頼朝配流の地 (伊豆韮山の旅) https://www.yoritomo-japan.com/izu-nirayama.htm 世界文化遺産:韮山反射炉 https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-hansharo.htm

2015建長寺開山忌(予定)

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7月23日から24日にかけて、 建長寺 では、開山の蘭渓道隆の大法要が行われます。 ※建長寺の 開山忌 は昨年から7月23日・24日に変更されています。 建長寺 開山の 蘭渓道隆 は、1246年(寛元4年)、宋から商船に乗って日本に渡ってきました。 鎌倉の地を踏んだのは、1248年(宝治2年)頃のことといわれています。 1253年(建長5年)、 道隆 は 建長寺 の開山に迎えられます。 道隆 の厳しい教えは今も 『法語規則』 として残されています。 建長寺 道隆は、元(中国)の密偵との疑いをかけられ伊豆に逃れた時期もあります。 そのときに住したのが修禅寺でした。 真言宗であった 修禅寺 を臨済宗に改宗したといいます。 修禅寺 (伊豆市) 1262年(弘長2年)、後嵯峨天皇の命によって、 道隆 は鎌倉を離れて京都の 建仁寺 の住持となります。 建仁寺 (京都市) その後、鎌倉に戻りますが、叡山衆徒が幕府に讒言したことから、二度に亘って甲斐国へ流されました。 甲府五山の 東光寺 は、 道隆 が再興して臨済宗の寺としたと伝えられています。 (甲斐国への配流は、道隆を保護するため措置だったといわれています。) 東光寺 (甲府市) 1278年(弘安元年)4月、 道隆 は鎌倉に戻りますが、その年の7月24日、66歳で亡くなりました。 後宇多天皇から「大覚禅師」の称号を贈られています。 ・・・・・・・・・・・ 開山忌