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殺生石の伝説と真如堂の鎌倉地蔵

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昔、中国には白面金毛九尾の狐がいたそうです。 美女妲妃(だっき)に化けて殷の紂王(ちゅうおう)をたぶらかしますが、正体を見破られて日本へ逃げてきました。 そして、鳥羽院の前に玉藻前(たまものまえ)となって現れます。 鳥羽院は玉藻前を寵愛しますが、陰陽師安倍泰親にその正体を見破られてしまいます。 狐は下野国那須野原に逃げますが、鳥羽院が派遣した 三浦義明 の矢で脇腹と首筋を貫かれ、 上総広常 の長刀でとどめを刺されました。 その時、狐の魂は石と化しますが、石となっても悪霊となって近寄る生き物を殺したので、「殺生石」と呼ばれ恐れられるようになりました。 室町時代になって、玄翁禅師が杖でその恐れられていた「殺生石」を叩き割り、狐の悪霊を成仏させます。 そして、禅師は3つに割れた石の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に小さな御堂を建てて安置したといいます。 江戸時代になると、この地蔵菩薩を篤く信仰していた甲良豊後守の夢の中に地蔵菩薩が現れ、衆生済度の霊場 「真如堂」 へ移すようにとのお告げがありました。 豊後守はその夢告に従って地蔵菩薩を 真如堂 に移したそうです。 そのため、 真如堂 の地蔵菩薩像は 「鎌倉地蔵」 と呼ばれているといいます。 真如堂 (真正極楽寺)の地蔵堂 本堂 元三大師堂 三重塔 参道 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

神泉苑の雨乞い対決・・・弘法大師と守敏僧都

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平安京の 羅城門 の東と西に建立された 東寺 と 西寺 。 東寺 では 弘法大師 が天皇家の安泰を祈り、 西寺 では守敏僧都が帝の長命を祈っていたといいますが、2つの寺は何かと張り合っていたそうです。 東寺 804年(延暦23年)、 弘法大師 が唐へ渡ることになります。 そのすきに、守敏僧都は朝夕参内しては、帝のために様々な加持を行ってみせるようになります。 凍った水をたちまちのうちに湯にしてしまうというような奇異なことを見せていましたので、守敏僧都に対する帝の信頼は篤いものになっていったといいます。 そんなとき 弘法大師 が唐から帰ってきました。 そして帝は、参内した 弘法大師 に守敏僧都のことをほめあげました。 すると・・・ 弘法大師 は、 「私のいるところではそんなこは出来ません」と申し上げます。 そこで帝は守敏僧都を呼び出して煮えたぎった湯を冷たくするよう命じます。 しかし、守敏僧都が湯の前で加持を行っても湯は冷めるどころか、ますます煮えたぎってしまったそうです。 陰で 弘法大師 が操っていたのです。 大恥をかいてしまった守敏僧都は復讐を誓いながら引き上げたといいます。 西寺跡 824年(天長2年)は暑い夏でした。 都では3ヶ月間も雨が降らなかったといいます。 このままでは日本国中が滅んでしまうと考えた帝は、 弘法大師 に雨乞い依頼します。 弘法大師 は 神泉苑 にこもって17日間にわたって雨乞いの修法を行いましたが、雨は降りませんでした。 自分の法力が尽きてしまったと思った 弘法大師 は、修法をやめ、静かに坐って三千世界のすみずみを見渡してみます。 すると・・・守敏僧都が世界中の雨の神(龍神)を呼び集め、水瓶のなかに閉じこめていたのでした。 これでは雨が降るわけがありません。 悩んだ 弘法大師 が、もう一度世界中を眺めてみると、天竺の大雪山にある無熱池に善女龍王がいることが判明します。 善女龍王は、守敏僧都よりもずっと位が上の龍王だったので守敏僧都の力も及ばなかったのだそうです。 そこで、 弘法大師 は帝を参内して大きな池を造るよう頼みます。 その池に善女龍王を勧請するためでした。 帝は直ちに 弘法大師 の願いを聞き入れて池を掘りま

京都:百萬遍知恩寺

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百萬遍知恩寺 は、法然の弟子・源智が知恩寺と名付けた後、後醍醐天皇から「百萬遍」の号を与えられたのだといいます。 阿弥陀堂 釈迦堂 御影堂 百萬遍知恩寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/tionji.htm

箱根湯本:白山神社と早雲寺

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箱根湯本の温泉は、天平年間に 白山神社 が勧請されたときに湧き出したと伝えられています。 白山神社 天平の頃、関東では疱瘡が蔓延していたといいます。 加賀白山の泰澄は、弟子の浄定を派遣して箱根に白山権現を勧請し、十一面観音を祀って祈らせたといいます。 そうすると箱根の山が裂け温泉が湧き出したのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 早雲寺 白山神社 は小田原北条氏の菩提所 早雲寺 の境内にあったといいます。 早雲寺 は北条早雲の遺言により北条氏綱が創建した寺です。 1590年(天正18年)の小田原攻めによって焼き払われてしまいますが、その後再興され、北条氏五代の墓も建てられました。 中門 本堂 本堂 鐘楼 梵鐘 開山堂 山上宗二追善碑 飯尾宗祇の墓 稲津祗空の墓 箱根湯本の湯は、 源頼朝 や北条早雲が浴した湯といわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

イコモスの評価結果及び勧告の概要~武家の古都・鎌倉~

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「武家の古都・鎌倉」 イコモスの評価結果及び勧告の概要 顕著な普遍的価値について 推薦書の説明は十分に包括的であり、鎌倉の歴史的な重要性は十分に説明されているが、現在の資産の状況は、連続した有形文化財として顕著な普遍的価値を有していることを証明できていない。すなわち、鎌倉の歴史的重要性が資産により十全な形で示されていない。 完全性及び真実性について 「完全性の条件」は、社寺や切通しを除いて物証として十分満たされていな く、当該資産で提案されている顕著な普遍的価値が証明されていない。一方、「真実性の条件」は満たされている。 基準ⅲ)の適用について 「現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」という基準について 鎌倉の武家による政治と文化の伝統は疑いもなく、歴史上ユニークなものである。しかし、構成資産では精神的、文化的な側面については示されているものの、それ以外の要素については物的証拠が少ないか(史跡、防御的要素)、顕著さにおいて限定的なものか(武家館跡、港跡)、あるいはほとんど証拠がないもの(市街地、権力の証拠、生活の様子)である。よって、登録基準ⅲ)の適用について証明されていない。 基準ⅳ)の適用について 「歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、或いは景観を代表する顕著な見本である。」という基準について 武家が鎌倉の地を選び、自然への働きかけによって防御性を高めたことは認められるが、それは鎌倉の価値の防御的側面を示すのみ(切通し等)であり、それだけで顕著な普遍的価値を有するとは言えない。一方で、社寺や庭園の景観は重要であ