東寺では弘法大師が天皇家の安泰を祈り、西寺では守敏僧都が帝の長命を祈っていたといいますが、2つの寺は何かと張り合っていたそうです。
804年(延暦23年)、弘法大師が唐へ渡ることになります。
そのすきに、守敏僧都は朝夕参内しては、帝のために様々な加持を行ってみせるようになります。
凍った水をたちまちのうちに湯にしてしまうというような奇異なことを見せていましたので、守敏僧都に対する帝の信頼は篤いものになっていったといいます。
そんなとき弘法大師が唐から帰ってきました。
そして帝は、参内した弘法大師に守敏僧都のことをほめあげました。
すると・・・弘法大師は、
「私のいるところではそんなこは出来ません」と申し上げます。
そこで帝は守敏僧都を呼び出して煮えたぎった湯を冷たくするよう命じます。
しかし、守敏僧都が湯の前で加持を行っても湯は冷めるどころか、ますます煮えたぎってしまったそうです。
陰で弘法大師が操っていたのです。
大恥をかいてしまった守敏僧都は復讐を誓いながら引き上げたといいます。
824年(天長2年)は暑い夏でした。
都では3ヶ月間も雨が降らなかったといいます。
このままでは日本国中が滅んでしまうと考えた帝は、弘法大師に雨乞い依頼します。
弘法大師は神泉苑にこもって17日間にわたって雨乞いの修法を行いましたが、雨は降りませんでした。
自分の法力が尽きてしまったと思った弘法大師は、修法をやめ、静かに坐って三千世界のすみずみを見渡してみます。
すると・・・守敏僧都が世界中の雨の神(龍神)を呼び集め、水瓶のなかに閉じこめていたのでした。
これでは雨が降るわけがありません。
悩んだ弘法大師が、もう一度世界中を眺めてみると、天竺の大雪山にある無熱池に善女龍王がいることが判明します。
善女龍王は、守敏僧都よりもずっと位が上の龍王だったので守敏僧都の力も及ばなかったのだそうです。
そこで、弘法大師は帝を参内して大きな池を造るよう頼みます。
その池に善女龍王を勧請するためでした。
帝は直ちに弘法大師の願いを聞き入れて池を掘ります。そして弘法大師は善女龍王を迎えるための修法を開始しました。
すると、金色の龍となった龍王が蛇の頭に乗ってやってきました。
善女龍王が勧請されると、これまで雲一つなかった空に雲がわき、国中に雨を降らせ、3日間降り続けたといいます。
こうして弘法大師の評判は高くなりますが、守敏僧都は腹の虫が治まらず、弘法大師を調伏しようと考えます。
それに気付いた弘法大師も東寺に護摩壇をつくって修法を始めます。
しかし、なかなか勝負がつきませんでした。
そこで弘法大師は自分が死んでしまったという噂をばらまきます。
それを聞いた守敏僧都は喜んで続けていた修法をやめてしまいました。
すると、修法をやめたとたん、守敏僧都は血まみれとなって倒れ、そのまま臨終を迎えてしまったそうです。
自分が人を殺そうとしたのに、それが自分の身に降りかかってしまったのです。
こういうことがあって、東寺が繁栄したのに対し、西寺は衰退して滅んでしまったのだといいます。
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鎌倉との繋がりを求めて!