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鎌倉ハムを挟んだ大船軒のサンドイッチ

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大船軒 のサンドイッチは、日本で初めての 『駅弁サンドイッチ』 。 「鎌倉ハム」 を使用したサンドイッチとしても知られています。 「鎌倉ハム」 は、鎌倉郡川上町(現在の横浜市戸塚区)に住んでいたイギリス人のウィリアム・カーティスから伝授された製法による手作りハム。 『駅弁サンドイッチ』 は大船駅や鎌倉駅の売店で販売されています。 ※湘南名物「鯵の押寿し」も大船軒人気の商品です。

けんちん汁~建長寺の精進料理~

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「ごぼう」、「大根」、「里いも」などを胡麻油で炒めて「だし汁」を加え、「醤油」や「味噌」で味付けした精進料理を 「けんちん汁」 といいます。 この「けんちん汁」という名は、 建長寺 の開山に招かれた 蘭渓道隆 が、野菜の皮やヘタを無駄にしないようにと発案した「建長汁」が訛って呼ばれるようになったのだといわれています。 豆腐を崩して入れるのは・・・? 実は・・・ 「誤って落として崩れてしまった豆腐」をそのまま入れたのがきっかけなのだそうです。 建長寺 は日本初の禅専門道場。 建長寺 は、今も昔もそうですが、全国からの修行僧が集まる場です。 建長寺 での厳しい修行を終えた僧が故郷へ帰り、あるいは新たな地へと赴き、 建長寺 の精進料理を伝えていったのかもしれません。 「けんちん汁」 には、味噌仕立てのものと醤油仕立てのものがあるようです。 建長寺のけんちん汁は醤油仕立て。 本来、だし汁は、鰹節や煮干しから取るのではなく、昆布や椎茸から取るのだそうです。 ※精進料理は「不殺生戒」という仏教の戒律に基づいた肉や魚を使用しない料理。 托鉢に向かう僧侶 源頼朝 が流されていた 伊豆の国市 にも「けんちん汁」があります。 臨済宗円覚寺派の古刹 国清寺 に伝えられた味噌仕立てのもので「国清汁」と呼ばれているようです。 やはり、 建長寺 の「建長汁」がもとになっているそうです。 国清寺 参考までに・・・ 漬け物の「たくあん」は、江戸時代、 建長寺 の復興に尽力した沢庵宗彭(たくあんそうほう)が発案したものなのだそうです。 建長寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm

東慶寺仏像展2012

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東慶寺 の松岡宝蔵で仏像展が開かれています。 普段は展示されていない「阿弥陀如来立像」や水月堂に安置されている「水月観音菩薩半跏像」を拝観することができます。 参考: 水面に映る月を眺める水月観音・・・東慶寺 2月22日と3月12日には展示仏像の説明会も開催されるようです。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

梅が咲き始めた円覚寺塔頭龍隠庵2012/02/18

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福寿草 龍隠庵 への道端に咲いています。 (参考: 円覚寺居士林の福寿草 ) 梅 が咲き始めています。 岩窟の前にも。 崖の上には畑があります。 立派な大根が育ってました。 崖の上の観音様 たくさんのスイセンが供えられています。 これだけスイセンが束になると素晴らしい・・・。 スイセン 本尊の聖観音像 暖かい「ほうじ茶」が有り難い。 龍隠庵 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/tera-emgakutatyyu-ryoinan.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

円覚寺居士林の福寿草

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円覚寺 塔頭 済蔭庵 (居士林)の 福寿草 。 鎌倉の福寿草 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/fukujyuso.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源為朝の伝説と鎌倉十井:六角ノ井

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源為朝は、源為義の八男。 13歳のときに父為義に追放され九州へ渡りますが、九州では自ら「鎮西八郎」と名乗り大暴れしていました。 為朝の身長は2m10㎝、左腕が右腕よりも12㎝も長かったといいます。 そして、105㎝の太刀を差し、255㎝の強弓(五人張り)を持っていたといいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 保元の乱 で 源義朝 に従い、為朝の矢を受けて負傷した 大庭景義 は、「鎮西八郎(為朝)は、無双の弓矢の達者也」と述べています(1191年(建久2年)8月1日条)。 源為朝ともいわれている武者絵 1156年(保元元年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立によって 保元の乱 が勃発します。 源為義は、頼賢、為朝などの一族とともに崇徳上皇方に付きます。 一方、為義の嫡男 義朝 は東国武士団を率いて後白河天皇方に付きました。 軍議の席で為朝は、夜討ちを主張しますが、藤原頼長の反対によって実現しませんでした。 逆に兄 義朝 に夜討ちをかけられ崇徳上皇方は敗れ去っています。 (参考: 保元の乱・・・武士の台頭 ) 保元の乱 後、逃亡していた為朝でしたが、近江国坂田で捕らえられてしまいます。 父為義らは、兄 義朝 によって処刑されていましたが、為朝はその武勇を惜しまれて助命され、伊豆大島に流されました。 そんな為朝が、ある日、腕試しのために鎌倉の天照山に向けて矢を放ちます。 その矢が落ちた場所が 鎌倉十井 の一つ 「六角ノ井」 だったといいます。 六角ノ井 『新編鎌倉志』には、為朝の放った矢は、 海上18里を越えて、この井戸に落ちたと記されているようです。 今でも矢の根(鏃)は井戸に残されているといいます。 伝説によれば、里人が矢の根を井戸から拾い上げたところ、たちまちに井戸の水が濁り、祟りだと噂されたといいます。 また、ある里人は矢の根を 住吉明神 に奉納したところ、井戸の水が濁ってしまったという伝説も残されています。 六角ノ井 https://www.yoritomo-japan.com/page135rokkaku.htm

墨書が見つかった阿弥陀三尊像・・・常楽寺

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常楽寺 は、三代執権 北条泰時 が建てた粟船御堂を前身としています。 仏殿 本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像の他、開山の蘭渓道隆像が安置されています。 天井の「雲龍図」は狩野雪信の筆。 阿弥陀三尊像 仏殿 に安置されている阿弥陀三尊像は、これまで南北朝時代の作と考えらていました。 しかし、最近の調査で、阿弥陀像の台座部分から「仁治3年(1242年)6月12日」の墨書が確認されました。 北条泰時 が、この日付から3日後の15日に亡くなっていることから、死期を悟った 泰時 が、その直前に造らせた可能性が高いと考えられているようです。 また、その作風から慶派仏師の定慶の作ではないかと推測されているようです。 北条泰時墓 北条泰時 は、 「連署」 や 「評定衆」 の設置、武家の法典である 「御成敗式目」 (貞永式目)の制定を行い、 北条執権体制 の基礎を固めた人物です。 和賀江嶋 を築港や 巨福呂坂 、 朝夷奈切通 の造営にも力を注ぎました。 泰時 は死後、 常楽寺 に葬られます。 参考までに、墨書の発見によって、阿弥陀三尊像は鎌倉市の文化財に指定されたそうです。 常楽寺 https://www.yoritomo-japan.com/page140jyorakuji.htm