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鎌倉:妙隆寺のフヨウとサルスベリ

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鎌倉・江ノ島七福神 の一つ寿老人を祀る 妙隆寺 。 夏の フヨウ と サルスベリ でも知られている寺です。 妙隆寺 の フヨウ はピンク サルスベリ は白花もあります。 鎌倉のフヨウ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/fuyo.htm 鎌倉のサルスベリ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/sarusuberi.htm 妙隆寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043myoryuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:瑞泉寺のフヨウ

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瑞泉寺 の本堂前に咲く フヨウ です。 鎌倉のフヨウ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/fuyo.htm 瑞泉寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page042zuisenji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

物の怪に祟られた北条政村の娘~妙本寺:蛇苦止堂~

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妙本寺 の 蛇苦止堂 は、讃岐局を祀るお堂で、 妙本寺 の鎮守です。 讃岐局は、比企能員の娘で、二代将軍 源頼家 の側室となり、長子一幡を産んでいます。 これによって、将軍家の外戚となった 比企能員 は、大きな権力を持つようになります。 しかし、1203年(建仁3年)9月2日、 比企能員 が 北条時政 に暗殺され、比企一族も討ち滅ぼされる 比企氏の乱 が起こりました。 讃岐局は比企ヶ谷が燃え上がる中、井戸に身を投げ、一幡は焼け死んだといいます。 (※比企ヶ谷には、比企氏の邸宅があり、一幡の小御所もありました。) 一幡の袖塚 比企氏の乱 のとき、一幡は6歳だったといいます。 乱後の焼け跡から出てきた袖が祀られています。 讃岐局の供養塔 祖師堂 前のイチョウの古木の根本に建てられています。 比企一族の墓 ~北条政村の娘に祟った讃岐局~ 1260年(文応元年)10月15日、北条政村の娘が物の怪に祟られて悩乱状態となります。 そして、取り憑かれた娘は、様々なことを口走ったといいます。 修験者がその訳を尋ねると・・・物の怪が現れます。 物の怪は、讃岐局でした。 物の怪が語ったところによると、 死んでから大蛇の姿となり、 頭には大角があって、 比企ヶ谷の土の中で火炎のような熱さに常に苦しんでいる ということのようです。 この話を聞いた人は身の毛のよだつ思いだったといいます。 11月27日、北条政村は娘の邪気を祓うため、一日で法華経を書写し、讃岐局の供養を行います。 導師は、 鶴岡八幡宮 の別当隆弁でした。 隆弁の説法の最中、政村の娘は、 舌を出し、唇を舐め、足を延ばして身悶えをし、 まるで蛇身が現れて隆弁の説法を聴聞していたようだった。 といいます。 そして、隆弁の加持祈祷の後、ぼうぜんとなり、眠るようにして祟りから覚めたということです。 その後、北条政村は、比企ヶ谷に 蛇苦止堂 を建立したと伝えられています。 蛇止堂 妙本寺 の「諸堂紹介」では、 讃岐局の弟比企能本が 日蓮 に救いを求め、 日蓮 が法華経の功徳によって讃岐局の霊を成仏させ、 蛇苦止明神として祀ったと紹介されています。 蛇苦止明神の額 蛇苦止ノ井 讃岐局が身を投じた

松葉ヶ谷法難・・・鎌倉:妙法寺

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「松葉ヶ谷法難」とは、 日蓮 の四大法難の一つです。 1254年(建長6年)、鎌倉に入った 日蓮 は、松葉ヶ谷に草庵を構えたといいます。 その場所が何処なのか特定されてはいませんが、大町の 妙法寺 がある場所もその一つとされています。 日蓮の辻説法跡 鎌倉に入った 日蓮 は、 小町大路 を中心に布教活動を行いました。 弟子には、のちに日蓮六老僧といわれる日昭と日朗がいました。 https://www.yoritomo-japan.com/page043tujiseppo.htm 1260年(文応元年)7月16日、 日蓮 は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』を 北条時頼 に提出します。 その冒頭には、 「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし」 と書かれ、 このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、 人々を惑わす法然の念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言したもので、幕府に対して、法華経を正法とするよう促すものでした。 立正安国論~鎌倉と日蓮 北条時頼への挑戦状・・・日蓮の立正安国論 光則寺 日蓮 は、宿谷光則を通じて『立正安国論』を提出したといいます。 のちに光則は、 日蓮 に帰依し、自邸を寺としました。 https://www.yoritomo-japan.com/page136kosokuji.htm しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによる焼き討ちに遭ったといいます(松葉ヶ谷法難)。 襲撃を企てた者の中には、北条重時、六代執権北条長時、 極楽寺 の忍性、 光明寺 の然阿良忠、 建長寺 の蘭渓道隆もいたといいます。 妙法寺 日蓮 の草庵跡の一つとされる大町の 妙法寺 。 草庵の焼き討ちに遭った 日蓮 は、どこからともなく現れた白猿に導かれ、 「お猿畠」 に避難したといいます。 そのとき、白猿が 日蓮 に 「お猿畠」 の生姜を捧げたという伝説から、 妙法寺 では 「厄除け生姜供養」 が行われてきました。 9月12日の 龍口法難会 のときに行われるそうです。

妙本寺二天門の修繕工事終了

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妙本寺 の 二天門 の修繕工事がほぼ終了したようです。 白龍の彫刻や持国天像・毘沙門天像は、まだビニールに包まれていましたが・・・ ノウゼンカズラ がまだ少し咲いています。 妙本寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043myohonji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

梶原景時と石橋山の戦い~源頼朝を助けた武将~

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鎌倉幕府で 源頼朝 の信任を得た梶原景時は、 石橋山の戦い では大庭景親の軍に属していました。 梶原氏 は、 大庭氏 と同じく 鎌倉権五郎景政 を祖としていると伝えられ、梶原景時と大庭景親は従兄弟ではないかともいわれています(参考: 御霊神社 (坂ノ下))。 御霊神社 (鎌倉:梶原) 鎌倉権五郎景政 を祭神とする梶原の鎮守。 「梶原」という地は、梶原景時に縁のある所といわれ、 御霊神社 には景時の像も安置されていたといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)、 源頼朝 は、 石橋山の戦い で惨敗し、土肥の椙山に身を隠します。 大庭景親 は、 頼朝 を追跡しますが、追跡軍の中には 梶原景時 もいたといいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 景時 は、頼朝の所在を知りながら「この山には人はいない」といって、 景親 の手を引いて去っていったといいます。 また、別の物語では・・・ 大木の洞窟に隠れていた 頼朝 を発見しながら、「ここには誰もいない。蜘蛛の巣ばかりだ」といって「弓の先についた蜘蛛の巣を見せた」とも伝えられています。 しとどの窟 (頼朝が隠れ潜んだという岩窟) いずれにしても、 景時 が 頼朝 の信頼を得たのは、「椙山で頼朝を助けた」ことが大きく影響しているということなのでしょうか??? 石橋山の戦い 後、 景時 が何処で何をしていたのかはわかりませんが・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 景時 は、この年の12月に 土肥実平 を頼り、翌年正月11日には、 頼朝 に面会して気に入られたといいます。 つまり、この時から 頼朝 の御家人となったということです。 のちに、侍所の所司(次官)にも任命されています。 梶原景時邸跡 鎌倉での 景時 の館は、十二所にあったといいます。 一宮館址 (寒川町) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵 源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃 源頼朝挙兵の日 源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・~ 三浦一族の進発~石橋山の戦い~ 源頼朝の敗戦~石橋山の戦い~ 源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~ 源頼朝・・・真鶴から安房へ 先陣を切って討死した佐奈田与一義

源頼家重病・・・家督相続の沙汰

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1203年(建仁3年)8月27日、病床にあった二代将軍 源頼家 の容態が悪化したため、以下の譲与が発表されます。 関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡 (のちの実朝) 関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子一幡 源頼家 源実朝 『吾妻鏡』によれば・・・ 頼家 は、7月20日に急病になったといいます。 23日には、病状が重いため祈祷も行われていますが、占いによると「霊神の祟り」ということだったようです。 以後、度々 頼家 の容態が思わしくないことが記され、この日の沙汰となっています。 この沙汰に対して激怒したのが、一幡の外祖父で、 頼家 の乳母夫を務めた 比企能員 です。 (※一幡の母は、能員の娘若狭局です。) 源頼朝 の乳母を務めた比企尼の養子で、 頼朝 からの信任も厚かった 能員 は、将軍家外戚として権勢をふるっていました。 『吾妻鏡』の9月2日条によれば・・・ 能員は、娘若狭局を通じて病床の 頼家 に次のように伝えます。 「地頭職を弟の千幡にも譲るということは、権威が二つに分かれ、権力争いになることは疑いのないこと。 子(一幡)と弟(千幡)のことを考え、おだやかに計らったようだが、かえって国の乱れの基となる。 しかも、一幡の家督は、北条時政に奪われてしまうだろうから、時政を追討すべきだ」 これに驚いた 頼家 は、能員を病床に招いて、 北条時政 追討の許可を与えました。 しかし、この密談を 北条政子 が障子の陰から聞いていて、 時政 に通報します。 能員の企てを知った 時政 は先手を討って、 能員 を自邸に招きだし暗殺しました。 そして、比企討伐が行われ、比企一族は、一幡の小御所に立て籠もって防戦しますが、やがて屋敷に火をかけ、一幡を囲んで自害したそうです( 比企氏の乱 )。 一幡の袖塚 (妙本寺) その後、 頼家 は・・・ 伊豆 修禅寺 に幽閉され、翌年暗殺されています。 源頼家の墓 (伊豆市) 参考: 源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ