讃岐局は、比企能員の娘で、二代将軍源頼家の側室となり、長子一幡を産んでいます。
これによって、将軍家の外戚となった比企能員は、大きな権力を持つようになります。
しかし、1203年(建仁3年)9月2日、比企能員が北条時政に暗殺され、比企一族も討ち滅ぼされる比企氏の乱が起こりました。
讃岐局は比企ヶ谷が燃え上がる中、井戸に身を投げ、一幡は焼け死んだといいます。
(※比企ヶ谷には、比企氏の邸宅があり、一幡の小御所もありました。)
一幡の袖塚 比企氏の乱のとき、一幡は6歳だったといいます。乱後の焼け跡から出てきた袖が祀られています。 |
讃岐局の供養塔 祖師堂前のイチョウの古木の根本に建てられています。 |
比企一族の墓 |
~北条政村の娘に祟った讃岐局~
1260年(文応元年)10月15日、北条政村の娘が物の怪に祟られて悩乱状態となります。
そして、取り憑かれた娘は、様々なことを口走ったといいます。
修験者がその訳を尋ねると・・・物の怪が現れます。
物の怪は、讃岐局でした。
物の怪が語ったところによると、
死んでから大蛇の姿となり、
頭には大角があって、
比企ヶ谷の土の中で火炎のような熱さに常に苦しんでいる
ということのようです。
この話を聞いた人は身の毛のよだつ思いだったといいます。
11月27日、北条政村は娘の邪気を祓うため、一日で法華経を書写し、讃岐局の供養を行います。
導師は、鶴岡八幡宮の別当隆弁でした。
隆弁の説法の最中、政村の娘は、
舌を出し、唇を舐め、足を延ばして身悶えをし、
まるで蛇身が現れて隆弁の説法を聴聞していたようだった。
といいます。
そして、隆弁の加持祈祷の後、ぼうぜんとなり、眠るようにして祟りから覚めたということです。
その後、北条政村は、比企ヶ谷に蛇苦止堂を建立したと伝えられています。
蛇止堂 妙本寺の「諸堂紹介」では、讃岐局の弟比企能本が日蓮に救いを求め、 日蓮が法華経の功徳によって讃岐局の霊を成仏させ、 蛇苦止明神として祀ったと紹介されています。 |
蛇苦止明神の額 |
蛇苦止ノ井 讃岐局が身を投じたという井戸です。「蛇形井」とも呼ばれています。 |
9月例大祭 毎月1日は、蛇苦止明神の例祭です。 |
「讃岐局」は、「若狭局」という名で登場することが多いようです。
「同一人物なのか、そうでないのか」ということは、私にはわかりませんが、ここでは、同一人物ということで投降させて頂いております。