別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年8月27日土曜日

松葉ヶ谷法難・・・鎌倉:妙法寺

「松葉ヶ谷法難」とは、日蓮の四大法難の一つです。

1254年(建長6年)、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を構えたといいます。

その場所が何処なのか特定されてはいませんが、大町の妙法寺がある場所もその一つとされています。


日蓮の辻説法跡
鎌倉に入った日蓮は、小町大路を中心に布教活動を行いました。
弟子には、のちに日蓮六老僧といわれる日昭と日朗がいました。
https://www.yoritomo-japan.com/page043tujiseppo.htm


1260年(文応元年)7月16日、日蓮は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』を北条時頼に提出します。

その冒頭には、

「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし」

と書かれ、

このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、

人々を惑わす法然の念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言したもので、幕府に対して、法華経を正法とするよう促すものでした。


立正安国論~鎌倉と日蓮
北条時頼への挑戦状・・・日蓮の立正安国論



光則寺
日蓮は、宿谷光則を通じて『立正安国論』を提出したといいます。
のちに光則は、日蓮に帰依し、自邸を寺としました。

https://www.yoritomo-japan.com/page136kosokuji.htm


しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによる焼き討ちに遭ったといいます(松葉ヶ谷法難)。

襲撃を企てた者の中には、北条重時、六代執権北条長時、極楽寺の忍性、光明寺の然阿良忠、建長寺の蘭渓道隆もいたといいます。


妙法寺
日蓮の草庵跡の一つとされる大町の妙法寺


草庵の焼き討ちに遭った日蓮は、どこからともなく現れた白猿に導かれ、「お猿畠」に避難したといいます。

そのとき、白猿が日蓮「お猿畠」の生姜を捧げたという伝説から、妙法寺では「厄除け生姜供養」が行われてきました。

9月12日の龍口法難会のときに行われるそうです。


かつては、日蓮が焼き討ちに遭った8月27日にも
「厄除け生姜の供養」が行われていたようですが・・・
今日では、受付でお線香を頂き、本殿前に立てて供養します。


その後、日蓮は、一時下房国に避難し再び鎌倉に戻りますが、1261年(弘長元年)5月12日、幕府は日蓮を伊豆へ流します(伊豆法難)。



妙法寺
https://www.yoritomo-japan.com/page126myohoji.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


よりともジャパン.com