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ぼんぼり祭(夏越祭・立秋祭・実朝祭)・・・鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮 の 「ぼんぼり祭」 は、立秋の前日から8月9日にわたって行われます。 太鼓橋 から 舞殿 に至るまでの参道や、 舞殿 から 白旗神社 、 鎌倉国宝館 前、 流鏑馬馬場 へとつづく道の両側には、鎌倉在住の文化人をはじめとする著名人が揮毫した「ぼんぼり」(雪洞)が仕立てられます。 ぼんぼりの数は約400点にもなるそうです。 夕刻になると「ぼんぼり」が灯され鎌倉の夜を彩ります。 「ぼんぼり祭」は、立秋前日の「夏越祭」、立秋の日の「立秋祭」、最終日の「実朝祭」とつづきます。 夏越祭 では、 源平池 の畔で邪気を祓う神事が行われ、茅の輪くぐりが行われます。 舞殿 では巫女による「夏越の舞」が奉納されます。 立秋祭 では、夏の間の無事を感謝し、御神前に鈴虫が供えられます。 実朝祭 の行われる8月9日は、三代将軍 源実朝 の誕生日です。 実朝 の遺徳を偲ぶとともに、俳句会や短歌会が催されます。 実朝 は、父 頼朝 が征夷大将軍となった1192年(建久3年)に生まれ、1203年(建仁3年)に兄 頼家 の跡をつぎ征夷大将軍となります。 しかし、実権は母 北条政子 や叔父 北条義時 に握られ、和歌や蹴鞠で自分を慰めていたといいます。 実朝 の編纂した 『金槐和歌集』 は、歌人としての 実朝 を広く知らしめることになります。 その後、前例のない叙任が続き、右大臣にまで昇りますが、1219年(承久元年)1月27日、甥の公暁によって暗殺されました。 亡骸は、 勝長寿院 に葬られたといいますが、その 勝長寿院 もいまはありません。 源実朝の誕生(okadoのブログ) 鶴岡文庫 では「回顧展」が開かれます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ぼんぼり祭 鶴岡八幡宮 鎌倉手帳

北条政子の頭髪曼荼羅~源頼朝の一周忌~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1200年(正治2年)正月13日、 法華堂 では 源頼朝 の一周忌が営まれ、 北条時政 以下の御家人が参列したといいます。 導師は 栄西 でした。 法華堂 には、 北条政子 が自らの髪の毛を除髪して刺繍したという「梵字の曼荼羅」が飾られたといいます。 頭髪梵字曼荼羅 (伊豆山神社) 46文字の梵字が 北条政子 の髪の毛であるといわれています。 伊豆山郷土資料館のパンフレットには、『吾妻鏡』に記されている曼荼羅と説明されています。 伊豆山神社 『吾妻鏡』の1212年(建暦2年)2月28日条によると・・・ 1198年(建久9年)、 稲毛重成 が相模川に橋を新造します。亡き妻の供養のためだったといいます(重成の妻は 北条政子 の妹でした。)。 源頼朝 はその橋供養に出席しますが、その帰途に落馬し、間もなく亡くなったといいます。 旧相模川橋脚 (茅ヶ崎市) 源頼朝墓 (鎌倉市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

母と子の悲しい運命・・・静御前

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源義経 は、平氏を壇ノ浦に滅亡させたのち、兄 頼朝 と対立して都を落ちます。 西国で兵を集めるためですが、運悪く 義経 の船団は嵐に遭って難破してしまいます。 義経 は、数人の供とともに 吉野山 に逃げ込みました。その中に 義経 の愛妾静御前がいたといいます。 静は、 吉野山 で 義経 と別れます。 その後、 蔵王堂 に辿り着いたところを捕らえられ、1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られてきました。 安達新三郎清経邸が宿舎とされたといいます。 そして、 源頼朝 から 鶴岡八幡宮 で舞を命じられたのは4月8日の灌仏会のときでした。 静の舞 (鎌倉まつり) 「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/sizuka.htm その後も静は鎌倉に留め置かれました。 義経 の子を身籠もっていたからです。 『吾妻鏡』によれば・・・ 静は、7月29日、安達新三郎の家で男子を出産します。 生まれてくるのが女子であれば命は助けられたのでしょうが、男子の場合は将来に憂いを残すので殺される運命にありました。 頼朝 は、新三郎に生まれた赤子を 由比ヶ浜 に捨てるように命じます。 そのため、新三郎は静から赤子を受け取ろうとしますが・・・ 静は赤子を衣に包んで抱き伏せながら泣き続けたといいます。 しかし、助命の願いは叶わず、ついに磯禅師が静から赤子を押し取り、新三郎に渡してしまいます。 これを聞いた 北条政子 も 頼朝 に助命を願いますが聞き入れられず、生まれたばかりの赤子は 由比ヶ浜 で殺されました。 「誕生したばかりなのに生きることが許されない」 母が 義経 の妾だった故の運命でした。 平清盛に助命されたおかげで、源氏再興の願いを叶えた 頼朝 ですので、その仲が修復不可能となった 義経 の子を生かしておくわけにはいかなかったのでしょう( 平清盛と源頼朝 )。 由比ヶ浜 https://www.yoritomo-japan.com/umi-yuigahama.htm それから2ヶ月後の9月16日

鎌倉幕府二代将軍:源頼家

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1199年(正治元年)正月13日、 源頼朝 が亡くなりました。 跡を継いだのは長男の 頼家 です。 頼家 は1182年(寿永元年)8月12日に誕生します。 鶴岡八幡宮 の参道 若宮大路 は、 頼朝 が妻 政子 の安産祈願のために整備させたものといわれています。 頼家 が父 頼朝 の家督を継いだのは18歳のときでした。 (ただし、征夷大将軍となったのは、1202年(建仁2年)7月22日。) ~将軍独裁から十三人の合議制へ~ 父 頼朝 が流人から身をおこして「鎌倉殿」となったのに対し、 頼家 は生まれながらの「鎌倉殿」です。 頼家 が父 頼朝 以上の独裁政治を行おうとしていたことが『吾妻鏡』には記されています。 一方、京都では、 頼朝 が亡くなった翌月、反幕派の土御門通親が関係する三左衛門事件が起こり、朝幕関係は極めて緊張した状態にありました。 そんな中、 頼家 の政治手腕に不安を抱いた老臣たちは、 1199年(正治元年)4月12日、母である 北条政子 とはかって、 頼家 が直接訴訟を裁断することを停止させ、 宿老十三人による合議 によって裁判することを決定しています。 これに対して 頼家 は、4月20日、お気に入りの近衆5人を指名して、 「鎌倉の中でこの5人がどのような狼藉を働いたとしても庶民は歯向かってはならない。しかも、この5人以外の者は、頼家にお目通りできない」 という決定をしたといいます。 ~梶原景時の失脚~ その年の10月、 梶原景時 が御家人66名による弾劾に遭い失脚、翌年、上洛する途中の駿河国清見関で在地御家人の襲撃を受け一族が滅亡しました( 梶原景時の変 )。 当時、京都の人々は、「景時を殺してしまったのは頼家の失策であった」と評したといいます。 ~頼家の政策に対する御家人の不満~ 1200年(正治2年)5月28日、 頼家 は、陸奥国の境界争いに際し、問題となっている土地の絵図の中央に線をひき、 「土地が広いか狭いかは運次第だ。わざわざ使を出して現地を調査するのは面倒である。以後の境界争いはすべてこのように裁判する。不服があるならば訴訟など起こさぬことだ」 と言ったといいます。 また、この年の12月28日には、 頼朝 以来の恩賞地について、その面積が一

江ノ島と源頼朝と弁財天

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伝説によると、 江ノ島 は、552年(欽明天皇13年)に海底から湧き出てきた島だといいます。 古い書物などでは、「江乃島」「江之島」「柄島」「絵島」などとも書かれています。 『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝 は、 文覚 に命じて 江ノ島 に弁財天を勧請しました。 (参考: 怪僧文覚と源頼朝 ) 1182年(養和2年)4月5日、 頼朝 は、 足利義兼 、 北条時政 、 畠山重忠 、結城朝光、 上総介広常 、 土肥実平 、佐々木盛綱、 和田義盛 らを供として 江ノ島 を訪れています。 弁財天の勧請は、奥州藤原秀衡を調伏するためだといわれています。 奥津宮 には、その時に 頼朝 が建てたという鳥居が残されています。 帰路、 金洗沢 ( 七里ヶ浜 )では牛追物が催されたといいます。 そして、 文覚 は、 江ノ島 に籠もり、4月26日、21日間の断食をして祈りを捧げたことを 頼朝 に報告しています。 高橋由一の「江の島図」 (江の島トンボロ) かつて、干潮時には干潟を歩いて渡ったという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1216年(建保4年)正月15日、孤島であった 江ノ島 が突然陸続きになったといいます。 奉安殿 辺津宮 にある奉安殿には「八臂弁財天」と「妙音弁財天」が祀られています。 源頼朝 が弁財天を勧請したことで、鎌倉幕府の江ノ島信仰が盛んになります。 その信仰の主な対象は、 頼朝 が 文覚 に造らせたという八臂弁財天でした。 八臂弁財天 中津宮 に安置されていたと伝わっています。 江戸時代になると、庶民の信仰も増え、裸弁財天(妙音弁財天)も人気を集めます。 妙音弁財天 中津宮 前にあったという 不老門 に安置されていたと伝わっています。 裸形彫刻は鎌倉時代の特徴的な手法といわれています。 鶴岡八幡宮 の裸弁財天や 延命寺 の裸地蔵、 青蓮寺 の鎖大師などが知られていますが、裸の彫刻を見せるためのものではなく、衣服を着せるためのものだったそうです。 江の島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm