別冊『鎌倉手帳』




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2011年7月20日水曜日

鎌倉幕府二代将軍:源頼家


1199年(正治元年)正月13日、源頼朝が亡くなりました。

跡を継いだのは長男の頼家です。





頼家は1182年(寿永元年)8月12日に誕生します。鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、頼朝が妻政子の安産祈願のために整備させたものといわれています。

頼家が父頼朝の家督を継いだのは18歳のときでした。
(ただし、征夷大将軍となったのは、1202年(建仁2年)7月22日。)


~将軍独裁から十三人の合議制へ~

頼朝が流人から身をおこして「鎌倉殿」となったのに対し、頼家は生まれながらの「鎌倉殿」です。

頼家が父頼朝以上の独裁政治を行おうとしていたことが『吾妻鏡』には記されています。

一方、京都では、頼朝が亡くなった翌月、反幕派の土御門通親が関係する三左衛門事件が起こり、朝幕関係は極めて緊張した状態にありました。


そんな中、頼家の政治手腕に不安を抱いた老臣たちは、

1199年(正治元年)4月12日、母である北条政子とはかって、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。


これに対して頼家は、4月20日、お気に入りの近衆5人を指名して、

「鎌倉の中でこの5人がどのような狼藉を働いたとしても庶民は歯向かってはならない。しかも、この5人以外の者は、頼家にお目通りできない」

という決定をしたといいます。



~梶原景時の失脚~

その年の10月、梶原景時が御家人66名による弾劾に遭い失脚、翌年、上洛する途中の駿河国清見関で在地御家人の襲撃を受け一族が滅亡しました(梶原景時の変)。

当時、京都の人々は、「景時を殺してしまったのは頼家の失策であった」と評したといいます。



~頼家の政策に対する御家人の不満~

1200年(正治2年)5月28日、頼家は、陸奥国の境界争いに際し、問題となっている土地の絵図の中央に線をひき、

「土地が広いか狭いかは運次第だ。わざわざ使を出して現地を調査するのは面倒である。以後の境界争いはすべてこのように裁判する。不服があるならば訴訟など起こさぬことだ」

と言ったといいます。


また、この年の12月28日には、頼朝以来の恩賞地について、その面積が一人につき五百町を超える分をとりあげて近臣たちに分け与えるよう大江広元に命じたといいます。

しかし、これは、三善善信らの諫めによって取り下げたそうです。


この頼家の政策は、『吾妻鏡』を読むかぎりにおいては「尋常でない」ということになるのかもしれませんが、当時は不正な土地争いも横行していたようですし、有力御家人の勢力を削ぐという思い切った政策とする見方もできるようです。

しかし、頼家が考えなければいけなかったのは、鎌倉幕府は、「東国武士の力があってこそ成立したものである」ということです。

頼朝の時代は、頼朝と側近による独裁政治が許されても、息子の時代まで御家人たちが黙ってその独裁を許すのかということなのでしょう。

そして、東国武士が頼朝に従ったのは、所領の安堵と、所領争い巡る公正な裁判を期待してのことであったはずですから・・・。

御家人たちの不満が大きくなっていったのは当然の事だったのかもしれません。



~頼家の最期~

梶原景時の変後、これといった大きな事件もなく、頼家はお気に入りの近臣たちと蹴鞠に熱をあげ、狩りに出掛けるなど忙しい毎日を送っていたようです。

しかし、1203年(建仁3年)5月19日、頼朝の弟阿野全成が謀叛の罪で捕らえられ、常陸国に流された後、殺されました(阿野全成の誅殺)。

その年の7月、頼家は急病となり、8月には危篤状態に陥ります。

そして、8月27日、頼家のあとは長男一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、弟の実朝が関西38ヶ国の総地頭となることが決定されました。

(この決定は、頼家の後ろ盾だった比企氏の勢力拡大を恐れた北条氏による措置であったともいわれています。)

これに不満を持ったのは比企能員(頼家の乳母夫)です。

9月2日、娘の若狭局(頼家の側室)を通じて病床の頼家に北条氏征伐を訴えたのだといいます。

しかし、北条時政は先手をうって能員を暗殺し、比企一族も北条義時らに攻められ滅亡しました(比企氏の乱)。

病状が回復し、この事件を知った頼家は、堀親家に文書を持たせ和田義盛仁田忠常時政討伐を命じますが・・・

義盛は文書を時政に差し出しています。

9月7日、頼家は将軍の座を追われ、実朝があとを継ぎます。


(修禅寺)


9月29日、頼家修禅寺に幽閉され、翌年7月18日、暗殺されました。

23歳でした。

その真相は明らかではありません。







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 梶原景時の変

 阿野全成の誅殺

 比企能員の暗殺・比企氏滅亡


初代執権北条時政

 二代執権北条義時


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