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後醍醐天皇の討幕計画と日野俊基~鎌倉:人物と歴史~

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後醍醐天皇 は、1318年(文保2年)に31歳で即位します。 当時の天皇の即位はほとんどが年少者で、その実権は上皇が握っていましたが、31歳という壮齢で即位した 後醍醐天皇 は、ただちに政治改革に乗り出します。 1321年(元亨元年)には、「院政」が停止され「天皇親政」が開始されました。 そして、 後醍醐天皇 の親政は、討幕計画へと発展していきます。 第96代後醍醐天皇 後醍醐天皇 は、後宇多上皇の第2皇子。 1308年(延慶元年)、花園天皇の皇太子に立てられました。 この年、鎌倉では 守邦王 が迎えられ第9代将軍となっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~正中の変~ 1324年(元亨4年)、 後醍醐天皇 の側近日野資朝と 日野俊基 は、ひそかに倒幕計画の兵を集めます。 『太平記』には「無礼講」と称された密会が行われたことが記されています。 しかし、仲間に加わっていた土岐頼員が妻に漏らしたことにより、討幕計画が発覚してしまいます。 頼員の妻は六波羅の斎藤利行の娘で、「後醍醐天皇の計画が失敗すれば夫の命はなく、成功すれば自分の親族が殺されてしまう」と考え、両方ともに救う方法として父斎藤利行に討幕計画を密告したといわれています。 倒幕計画が発覚したことによって、日野資朝と 日野俊基 は捕らえられて鎌倉に送られました。 これに対して後醍醐天皇は、 北条高時 に誓紙を送っています。 このとき、「天皇が武士に誓紙を下すというのは例のないこと。神仏の祟りがあるかもしれないから文箱を開けずにお返しした方がいい」という意見もあったようです。 しかし、 高時 は斎藤利行に誓紙を読ませます。 すると、利行は途中で気分を悪くし、7日後に血を吐いて死んでしまったのだといいます。 その後、日野資朝は死一等を減じられ佐渡流罪となり、 日野俊基 は無罪となって都に戻っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~元弘の変~ 正中の変で失敗してしまった 後醍醐天皇 でしたが、討幕の意志は固く、 日野俊基 らは討幕計画をおし進めます。 しかし、計画はまたも事前に発覚してしまい、1331年(元弘元年)、 日野俊基 は再び鎌倉に送られてきました。 一方、幕府軍が攻め込んでくることを予知した 後醍醐天皇

北条得宗家の滅亡~最後の得宗・北条時行~

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1333年(元弘3年)5月22日、 新田義貞 の鎌倉攻めによって、得宗 北条高時 は 東勝寺 で自刃。 これにより鎌倉幕府は滅亡しますが、高時には嫡男・万寿と次男・亀寿がいました。 東勝寺跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北条高時の嫡男・邦時~ 万寿=北条邦時は、五大院宗繁の妹と高時との間に生まれた子です。 鎌倉幕府の滅亡後、邦時は伯父の宗繁に託されますが、新田軍による北条一族の捜索は厳しく、匿っていた者も次々に誅殺されていきました。 それを見ていた宗繁は、邦時を 伊豆山 へ向かわせる一方で、邦時を裏切って新田軍に密告します。 伊豆山 へ向かっていた邦時は、途中で捕えられ処刑されたのだといいます(享年9歳)。 邦時を裏切った宗繁は非難され逃亡。 最期は誰からも見捨てられ、餓死したのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~挙兵した次男・時行~ 亀寿=北条時行は、嫡男万寿の異母弟にあたります。 時行は、鎌倉幕府の滅亡後、諏訪盛高(頼重)に連れられ信濃に逃れます。 そして、1335年(建武2年)7月、信濃で挙兵して鎌倉に攻め込みました( 中先代の乱 )。 護良親王墓 時行が鎌倉を攻めたことにより、成良親王を奉じて鎌倉を守っていた 足利直義 は敗走します。 その際、直義は東光寺(現 鎌倉宮 )に幽閉していた 護良親王 を殺害しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 7月25日に鎌倉に入り、一時鎌倉を占領した時行でしたが、8月19日には 足利尊氏 に攻められ敗走しています。 勝長寿院跡 時行を担ぎ出したのは諏訪頼重でした。 足利尊氏 が鎌倉を奪還すると、時行は鎌倉を逃れますが、頼重は 勝長寿院 で自刃したと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 足利尊氏 が京に室町幕府を開くと、朝廷は南北に分かれます(南北朝時代)。 鎌倉を逃れた時行は、のちに南朝方に属して反幕勢力の一員となっています。 1352年(文和元年・正平7年)、 観応の擾乱 後、 新田義貞 の遺児義宗と義興が挙兵すると、時行も挙兵します。 しかし、 足利尊氏 ・基氏父子によって捕らえられ、翌年、 龍ノ口 で処刑されました。 時行が死んだことによって 北条得宗家 は完全に滅亡します

鎌倉幕府最後の執権・・・赤橋(北条)守時

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鎌倉幕府の最後の執権は十六代目の赤橋(北条)守時でした。 太鼓橋 鶴岡八幡宮 の 太鼓橋 は、1182年(寿永元年)に架けられました。 当時は朱塗りの橋でしたので「赤橋」と呼ばれていました。 赤橋家は、北条氏の庶流で六代執権を務めた北条長時を始まりとしています。 鶴岡八幡宮 の 太鼓橋 の近くに屋敷があったことから「赤橋」と呼ばれ、 得宗家 に次ぐ家格であったといわれています。 (現在の三の鳥居の右前辺り(鎌倉彫「陽雅堂」辺り)に赤橋家の屋敷があったのではないかと思われます。) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~嘉暦の騒動で執権に・・・~ 十四代執権 北条高時 は、1326年(正中3年)3月にその職を辞します。 得宗家 の内管領長崎円喜と 得宗家 の外戚安達時顕が対立する中の3月16日、十五代執権には金沢流の金沢貞顕が就任します。 しかし、貞顕は、わずか10日で執権職を辞任し出家してしまいます。 その後、十六代執権となったのが赤橋守時でした(参考: 嘉暦の騒動 )。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~足利尊氏と守時の妹登子~ 守時の妹登子は 足利高氏 (尊氏)に嫁ぎました。 1333年(元弘3年)、 高氏 は幕府の命によって、後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力を鎮圧するため西国に出発します。 『太平記』によると、 高氏 はこのときすでに幕府への反逆を決意していたといいます。 妻登子と嫡子千寿王(義詮)は鎌倉に人質として残されますが、 高氏 が天皇方に付くと鎌倉を脱出し、千寿王は 新田義貞 に奉じられて鎌倉攻めに参加したといいます。 鎌倉幕府を裏切った 高氏 は、5月7日、六波羅を陥落させています。 5月8日には、 新田義貞 が倒幕の挙兵をしました。 そして、5月18日がやってきます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~守時の最期・・・洲崎の戦い~ 足利高氏 の裏切り、妹登子と千寿王の鎌倉脱出によって、幕府内での守時の立場は悪くなります。 守時も「裏切り者」として見られていたようです。 そんな中、 新田義貞 が、各地で幕府軍を破り鎌倉に迫ってきました。 守時は新田軍を迎え撃つため洲崎に出陣します。 しかし、守時率いる幕府軍は敗れてしまいます。 侍大将南条高直は、

新田義貞伝説~黄金の雌雄の太刀~

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1333年(元弘3年)、上野国の 新田義貞 が倒幕の挙兵をし鎌倉に攻め込みました。 小動神社 (腰越) 新田義貞 は、 小動神社 で戦勝祈願を行っています。 その折、黄金の雌雄の太刀のうち 「雌太刀」 を小動神社に奉納したのだといいます。 そして・・・ 稲村ヶ崎 には、 新田義貞 の黄金の太刀の伝説が残されています。 稲村ヶ崎 を突破し鎌倉に攻め込みたい義貞は、海に黄金の太刀を投げ入れ龍神に祈願したといいます。 すると、潮が引き、 稲村ヶ崎 を越えることができたという伝説です。 この海に投げ入れた黄金の太刀が 「雄太刀」 だとする言い伝えもあるそうです。 小動神社の 「雌太刀」 の行方は・・・ 浄泉寺 (腰越) 浄泉寺 は 小動神社 と一緒にあった寺で、 新田義貞 が 小動神社 に納めたという太刀を保管していたといわれています。 残念ながら、伝説の 雌雄の太刀 は現存していないようです。 稲村ヶ崎を突破した新田義貞は・・・ 稲村ヶ崎 を突破して鎌倉に乱入した新田軍は、 東勝寺 の 北条高時 を攻め、鎌倉幕府を滅亡させました(参考: 鎌倉幕府の滅亡 )。 稲村ヶ崎 https://www.yoritomo-japan.com/page136inamura.htm

鎌倉炎上~新田義貞の鎌倉攻め~

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1333年(元弘3年)5月21日、 稲村ヶ崎 を突破した新田義貞は鎌倉に乱入し、翌22日、 北条高時 らが籠もる 東勝寺 を攻め鎌倉幕府を滅亡させました(参考: 鎌倉幕府の滅亡 )。 『太平記』によると、 義貞は5月8日に挙兵、鎌倉に迫ると隊を三隊に分け、本隊は 仮粧坂 、大舘宗氏と江田行義の部隊は 極楽寺坂 、堀口貞満、大島守之の部隊が 巨福呂坂 から総攻撃をしかけます。 小動神社 (腰越) 鎌倉を攻める新田義貞は、 小動神社 で戦勝を祈願したと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~山崎合戦(洲崎古戦場)~ 洲崎古戦場の碑 最初に鎌倉軍の守りが崩れたのが 洲崎 でした。 戦いは5月18日早朝から一日一夜にして65度の合戦があったといいます。 洲崎を守っていたのは十六代執権赤橋(北条)守時でした。 戦いに敗れた守時は、侍大将の南条高直に、 「一度の敗戦で幕府(北条)の命運が尽きるとは思わないが、自分はここで潔く腹を切ろうと思う。」 といって自害したそうです。 守時の妹は、六波羅探題を滅ぼした 足利尊氏 の妻でした(六波羅は5月7日に陥落しています。)。 そういったことから、守時は北条一門からも疑いをかけられるようなことがあったのでしょう。 洲崎の守りを突破した新田軍は 巨福呂坂 になだれ込みます。 陣出の泣塔 赤橋守時が切腹すると南条高直も続き、90余名が折り重なって死んでいったといいます。 この宝篋印塔は、洲崎の戦いでの戦死者の供養塔ともいわれています。 泣塔背後のやぐら 泣塔 泣塔 等覚寺(梶原)の五輪塔群 洲崎古戦場から出土した戦死者の供養塔といわれています。 等覚寺弘法大師像 等覚寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~極楽寺坂の攻防~ 現在の極楽寺坂 (極楽寺切通) 極楽寺坂 を守っていたのは大仏(北条)貞直でした。 貞直はよく奮戦しましたが、次第に手勢も少なくなっていきます。 家臣の中には切腹する者も出てきました。 それを見た貞直は、 「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本文」 といって切腹した者を罵ったといいます。 そして、わずかな手勢で新田義貞の弟脇屋義助の陣になだれ込んで戦死しました。 十一人塚 新田軍の大舘宗氏は、