当時の天皇の即位はほとんどが年少者で、その実権は上皇が握っていましたが、31歳という壮齢で即位した後醍醐天皇は、ただちに政治改革に乗り出します。
1321年(元亨元年)には、「院政」が停止され「天皇親政」が開始されました。
そして、後醍醐天皇の親政は、討幕計画へと発展していきます。
後醍醐天皇は、後宇多上皇の第2皇子。
1308年(延慶元年)、花園天皇の皇太子に立てられました。
この年、鎌倉では守邦王が迎えられ第9代将軍となっています。
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~正中の変~
1324年(元亨4年)、後醍醐天皇の側近日野資朝と日野俊基は、ひそかに倒幕計画の兵を集めます。
『太平記』には「無礼講」と称された密会が行われたことが記されています。
しかし、仲間に加わっていた土岐頼員が妻に漏らしたことにより、討幕計画が発覚してしまいます。
頼員の妻は六波羅の斎藤利行の娘で、「後醍醐天皇の計画が失敗すれば夫の命はなく、成功すれば自分の親族が殺されてしまう」と考え、両方ともに救う方法として父斎藤利行に討幕計画を密告したといわれています。
倒幕計画が発覚したことによって、日野資朝と日野俊基は捕らえられて鎌倉に送られました。
これに対して後醍醐天皇は、北条高時に誓紙を送っています。
このとき、「天皇が武士に誓紙を下すというのは例のないこと。神仏の祟りがあるかもしれないから文箱を開けずにお返しした方がいい」という意見もあったようです。
しかし、高時は斎藤利行に誓紙を読ませます。
すると、利行は途中で気分を悪くし、7日後に血を吐いて死んでしまったのだといいます。
その後、日野資朝は死一等を減じられ佐渡流罪となり、日野俊基は無罪となって都に戻っています。
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~元弘の変~
正中の変で失敗してしまった後醍醐天皇でしたが、討幕の意志は固く、日野俊基らは討幕計画をおし進めます。
しかし、計画はまたも事前に発覚してしまい、1331年(元弘元年)、日野俊基は再び鎌倉に送られてきました。
一方、幕府軍が攻め込んでくることを予知した後醍醐天皇は、笠置で挙兵しますが失敗に終わります。
1332年(元弘2年)、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に流されています。
そして、日野俊基は葛原ヶ岡で斬首されました。
正中の変で佐渡に流されていた日野資朝も斬罪に処せられています。
俊基の墓は、斬首された葛原ヶ岡に建てられています。
『太平記』には、日野俊基の家臣後藤左衛門尉助光が、俊基夫人の手紙を届けたことが記されています。
葛原岡神社は、1887年(明治20年)、明治天皇によって創建された神社です。
祭神は日野俊基。
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その後、後醍醐天皇の皇子護良親王は楠木正成らととも倒幕の活動を続け、後醍醐天皇も隠岐を脱出して挙兵しました。
幕府は、足利尊氏を鎮圧に向かわせますが、尊氏は天皇方に付き六波羅を陥落させ、上野国で挙兵した新田義貞が鎌倉を攻めたことによって、鎌倉幕府は滅亡します(1333年(元弘3年))。
「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」
日野俊基の辞世の歌です。
葛原岡神社では、俊基の命日にあたる6月3日に例祭が行われます。
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