『太平記』によると、
義貞は5月8日に挙兵、鎌倉に迫ると隊を三隊に分け、本隊は仮粧坂、大舘宗氏と江田行義の部隊は極楽寺坂、堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂から総攻撃をしかけます。
(腰越)
鎌倉を攻める新田義貞は、小動神社で戦勝を祈願したと伝えられています。
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~山崎合戦(洲崎古戦場)~
最初に鎌倉軍の守りが崩れたのが洲崎でした。
戦いは5月18日早朝から一日一夜にして65度の合戦があったといいます。
洲崎を守っていたのは十六代執権赤橋(北条)守時でした。
戦いに敗れた守時は、侍大将の南条高直に、
「一度の敗戦で幕府(北条)の命運が尽きるとは思わないが、自分はここで潔く腹を切ろうと思う。」
といって自害したそうです。
守時の妹は、六波羅探題を滅ぼした足利尊氏の妻でした(六波羅は5月7日に陥落しています。)。
そういったことから、守時は北条一門からも疑いをかけられるようなことがあったのでしょう。
洲崎の守りを突破した新田軍は巨福呂坂になだれ込みます。
赤橋守時が切腹すると南条高直も続き、90余名が折り重なって死んでいったといいます。
この宝篋印塔は、洲崎の戦いでの戦死者の供養塔ともいわれています。
泣塔背後のやぐら
泣塔
泣塔
洲崎古戦場から出土した戦死者の供養塔といわれています。
等覚寺弘法大師像
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~極楽寺坂の攻防~
(極楽寺切通)
極楽寺坂を守っていたのは大仏(北条)貞直でした。
貞直はよく奮戦しましたが、次第に手勢も少なくなっていきます。
家臣の中には切腹する者も出てきました。
それを見た貞直は、
「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本文」
といって切腹した者を罵ったといいます。
そして、わずかな手勢で新田義貞の弟脇屋義助の陣になだれ込んで戦死しました。
新田軍の大舘宗氏は、極楽寺坂を突破しますが、稲瀬川付近で北条軍の反撃に遭い宗氏以下11人が討死しました。
十一人塚には討死した11人が葬られているといいます。
貞直の家臣本間山城左衛門は、貞直の勘気を蒙って出仕を禁止されていましたが、新田軍の大将大舘宗氏を討ち取り、
「これで多年の御恩に報いることができました。」
といって切腹したといいます。
碑には、大舘宗氏が討死した場所であることが刻まれています。
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~稲村ヶ崎の突破~
極楽寺坂部隊の大将大舘宗氏を討たれた新田義貞は、極楽寺坂の指揮系統が失われたため、稲村ヶ崎の聖福寺の谷に布陣します。
稲村ヶ崎には、
「新田義貞が黄金の太刀を海に投げ込み龍神に祈った」
という伝説が残されています。
5月21日未明、義貞は稲村ヶ崎を突破しました。
稲村ヶ崎の突破には諸説あるようですが、引潮の時を狙って突破を試みたと考えるのが妥当なのでしょうか・・・?
義貞が稲村ヶ崎を突破する前に、巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺坂などからもかなりの兵が鎌倉に乱入していたのでしょうから、幕府軍は挟み撃ちされる状況だったのかもしれません。
鎌倉に乱入した新田義貞はここに本陣を構えたといいます。
九品寺は、鎌倉にある唯一の義貞ゆかりの寺です。
鎌倉十橋の一つに数えられる乱橋は、一説によると、幕府軍が乱れ始めた場所ということで名付けられたのだそうです。
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~長崎高重の奮戦~
長崎高重は、得宗家の内管領長崎高資の嫡男です。
新田義貞の挙兵以来、各地で先陣を務め、義貞が鎌倉に乱入してからは、東勝寺に避難していた北条高時に近づく敵を追い払っていました。
一度東勝寺に戻った高重は高時に切腹の覚悟を伝え、
「もう一戦してまいりますので、高重が帰ってくるまで自害をしませんように」
といって戦場へと出て行ったといいます。
材木座の弁ヶ谷には、北条高時が建てた崇寿寺がありました。
最後の戦いに臨む長崎高重は崇寿寺の南山和尚に、
「武士とはなにか。死に臨んでどうあるべきか」
を問うたといいます。
南山和尚は、
「剣を振るって前進あるのみ」
と答えたそうです。
高重は、たった150騎余の兵で、義貞ただ一人を狙って戦います。
一方の義貞軍は3000騎余。奮戦しますが義貞を討つことは叶わず東勝寺へ引き上げます。
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~北条高時自刃・・・鎌倉幕府の滅亡~
東勝寺に戻った長崎高重は、戦いの様子を北条高時に報告し自刃します。
高時も続いて自刃し、一族870名も次々に自刃しました。1333年(元弘3年)5月22日の出来事でした。
小町亭にいた北条高時は、一族とともに東勝寺に避難します。
そして、ここで高時が自刃したことで鎌倉幕府が滅亡します。
「北条高時の腹切りやぐら」とも呼ばれています。
高時が葬られたともいわれています。
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~日坂と十間坂~
七里ヶ浜から鎌倉高校の正門に至る坂は「日坂」と呼ばれていました。
鎌倉を攻める新田軍はこの坂を通ったといいます(参考:江ノ電「鎌倉高校前駅」)。
十間坂は、『太平記』にも記されている古戦場です。
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宝戒寺の徳崇大権現堂には、北条高時像が安置されています。
5月22日には、像が本堂に移され供養が行われます。