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白旗神社例祭~源頼朝の命日~

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1月13日は 源頼朝 の命日にあたります。 1198年(建久9年)12月27日、稲毛重成の妻の供養のために相模川に架けられた橋の渡り初めを行った 頼朝 は、 その帰路落馬し、その怪我が原因で翌年(建久10年)正月13日に亡くなったと伝えられています(参考: 旧相模川橋脚~相模川の橋供養~   源頼朝落馬の地 )。 旧相模川の橋脚 (茅ヶ崎市にある国指定史跡) https://www.yoritomo-japan.com/sagamigawa.htm 頼朝 の死には、 義経 や平家の亡霊が現れたなどという噂もたてられたようですが、その後の政局(源氏の滅亡)から考えると「暗殺されたのではないか(謀叛)」との見方もあります。 ~白旗神社例祭~ 白旗神社(西御門) https://www.yoritomo-japan.com/page041sirahata.htm ここには、江戸時代まで法華堂といわれた小庵がありました。 現在、頼朝墓が建てられている場所にあった 法華堂 が、1247年(宝治元年)の 宝治合戦 以後に移されたものと考えられていますが、定かなことは不明です。 鶴岡八幡宮 の 相承院 が別当を務めていました。 明治の神仏分離によって白旗神社となりますが、納められていた仏像は、 来迎寺 (西御門)に移されています。 1月13日はこの白旗神社の例祭の日です。 鶴岡八幡宮 の宮司以下神職が出席し、鎌倉に武家政権の都を創設した 源頼朝 の遺徳をたたえる祝詞が奏されます。 ~頼朝はどこに葬られたのか・・・~ 頼朝 はその死後、持仏堂だったという 法華堂 に葬られたというのが一般的な説です。 しかし、 法華堂 に葬られたとする資料は残されていないようです。 (※ 法華堂 は、白旗神社の上の、現在の「頼朝の墓塔」が建てられている所にあったようです。) そして、 頼朝 が1185年(文治元年)に創建した 勝長寿院 は、父 義朝 の菩提を弔った「源氏の菩提寺」のはずです。 何故そこに葬られなかったのかという疑問が生じます。 頼朝墓 現在の層塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てました。 供物台には島津家の「丸に十字」の紋が残されています。 https://www

建長寺・円覚寺の伽藍配置

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禅宗のいわゆる七堂伽藍というのは、山門・仏殿・法堂・僧堂・庫裡・西浄(便所)・浴室の建物のことといわれ、これらの建物が中国の影響を受けて左右対称に並んでいるのが特徴です。 鎌倉を代表する禅宗寺院の 建長寺 や 円覚寺 の伽藍の配置は、中国の径山万寿寺の伽藍を手本にしたものです。 建長、円覚の両寺は、度重なる火災によって創建当時の建物は残されていませんが、幸い 建長寺 には境内全体の平面図が、 円覚寺 には絵図が残されています。 ~建長寺の平面図~ 写真がよくないのでわかりずらいかもしれませんが、総門を入ると左右6本ずつのビャクシンが植えられ、その背後に西浄と浴室が配置されています。 そして、山門・ビャクシン・仏殿・法堂が一直線に並び、左右に僧堂と庫院が並ぶ配置になっています。 簡単に描くとこんな感じの配置になります。 =西浄・浴室の配置と苑池の配置は日本独特のもの= 伽藍の前方に西浄(便所)と浴室を置く配置というのは、日本の禅宗寺院の特色で中国ではみられないそうです。地形的に東西の幅を広くとることができなかったためと考えられています。 また、伽藍の後方に苑池も中国ではみられないもので、いずれにしても 建長寺 が発祥であると考えられています。 右から 前栽列樹 (ビャクシン)・仏殿・法堂です。 ビャクシンの後ろに山門があります。 ~円覚寺の絵図~ 1334年(建武元年)頃に作成されたと考えられている円覚寺の絵図です。 現在でもその面影を見ることが出来ますが、総門・山門・仏殿・法堂・方丈が一直線に、しかも五段の階段状に並ぶ伽藍配置でした。 現在の 黄梅院 の場所には華厳塔が見られ、覚山尼が八代執権 北条時宗 の三回忌に建立したものではないかと考えられています。 山門からみた仏殿です。 ※「建長寺の平面図」や「円覚寺の絵図」は、11月の 宝物風入 の際に観ることができると思います。 建長寺の伽藍配置 https://www.yoritomo-japan.com/kentyoji-garan.htm 円覚寺の伽藍配置 https://www.yoritomo-japan.com/engakuji-garan.htm 建長寺の名勝庭園 https://www.yor

材木座海岸の汐まつり(汐神楽)

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「汐まつり」は、「鎌倉神楽」を奉納することから「汐(潮)神楽」とか「浜神楽」とも呼ばれています。 江戸時代中期ごろからはじめられたのではないかといわれる「大漁と安全を祈願する祭事」です。 浜に斎竹(いみだけ)を四方に立て注連縄が張られ神座が設けられます。 (囲まれた場所は「山」と呼ばれています。) 供物には海の幸・山の幸が供えられます。 天王唄の奉納 (祝唄) 目出度めでたの 若松さまよ アーラヨイ 枝も栄えて ヤレコラ 葉も茂る オモシロヤ (海上の守護神ト安全) 金比羅さんに 燈火がともる アーラヨイ 和賀に出入りの ヤレコラ 船しるべ オモシロヤ (神社ト氏子ノ繁栄) 祝いますぞえ 氏神さまに アーラヨイ 氏子栄えて ヤレコラ 宮繁る オモシロヤ 神職による神事 神事の後に 「鎌倉神楽」 が奉納されます。 「鎌倉神楽」は、釜で湯を煮えたぎらせ、その湯で神事を行うことから、「湯立神楽」とか「湯花神楽」とも呼ばれています。 枝葉を湯にくぐらせ湯を撒きます。この時に湯花の加減で吉凶が占われます。 撒かれた湯がかかると健康で過ごせると伝えられています。 山の四方に矢が放たれます。 最後に矢が海(神座)に向けられましたが放たれませんでした。 おそらく、そこには「厄はない」という意味なのかと思われます。 「天狗」と「もどき」の神楽は、天狗の舞をもどきが邪魔をするという設定で、参加者を楽しませてくれます。 参観者には、ミカンが撒かれます。 汐まつりの後、参観者にミカンが配られ、左義長(どんど焼き・さいと焼き)が行われました。 寒い日でしたので、この火の暖かさが有り難く感じられました。 潮神楽~鎌倉手帳~ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/siokagura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

江の島の三宮と三坊

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江の島 には、 岩屋 本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮があって、 その三宮にはそれぞれ、岩本院(岩本坊または中之坊とも呼ばれた。)、上之坊、下之坊という別当寺がありました(いずれも古義真言宗)。 岩本楼 現在の旅館岩本楼は、岩屋本宮の別当「岩本坊」でした。 一山の総別当だったともいわれています。 江戸時代には院号の使用が許され「岩本院」と称しています。 (岩本楼ホームページ: http://www.iwamotoro.co.jp/ ) ~岩本院~ 岩屋本宮 の別当寺で「江島寺」とも呼ばれていたといいます。 中世には間宮氏が経営し、岩本楼には、鎌倉公方足利成氏から間宮氏に送られたの感謝状をはじめ、小田原北条氏からの書状が残されているようです。 江戸時代には京都仁和寺の末寺となり、江戸幕府からは、1649年(慶安2年)、 江の島 全山の山林竹木等諸役免除の朱印状が与えられ、1706年(宝永3年)には、片瀬村に社領15石の朱印地が与えられています。 奥津宮は岩屋本宮の御旅所でした。 岩屋 本宮の弁財天像は弘法大師の作だったと伝わっています。 ~上之坊~ 現在の中津宮です。 853年(仁寿3年)、慈覚(円仁:第三代天台座主)の創建と伝えられています。 1549年(天文18年)、北条氏康が修造料として白糸を寄進されました。 江戸幕府からは1706年(宝永3年)、片瀬村に社役として10石の朱印地が与えられています。 ~下の坊~ 現在の辺津宮です。 1206年(建永元年)、鎌倉幕府三代将軍の源実朝の許しを得て、 鶴岡八幡宮 の供僧良真が創建したと伝えられています。 参考 聖天島(鎌倉手帳)   宋国伝来の古碑(okadoのブログ)   蟇石と無熱池(鎌倉手帳) 1549年(天文18年)、北条氏康が修造料として白糸を寄進されました。 1637年(寛永14年)に鐘が鋳造され、1675年(延宝3年)に本殿が再建されています。 1690年(元禄3年)には、杉山検校によって社殿が再興され、1693年(元禄6年)には三重塔が建てられています。 参考 鍼師「杉山検校」と江の島弁財天(okadoのブログ) 江戸幕府からは、

鍼師「杉山検校」と江の島弁財天

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杉山検校(けんぎょう)は、本名を和一といい、幼いときに失明しました。 鍼医を学んでいましたが、なかな上達しなかったので、 江の島 の弁財天に参籠します。 そして、満願の日に石につまずいたのがきっかけとなって、徳川綱吉の病気をも治したという「管鍼法」の技術が誕生しました。 「検校」というのは、盲官の最高位になります。 ~福 石~ 江島神社 の辺津宮へと上る石段の途中に 「福石」 があります。 (竜宮城を模したという 瑞心門 を通って、右の階段上がった右側です。) 瑞心門 福 石 この石につまずた和一は、その時に竹筒を拾います。 その竹筒の中には松葉が入っていました。 この竹筒の中の松葉が和一の体を刺したことから、管鍼法の技術が考案されたと伝えられています。 管鍼法の技術を得た和一は、徳川五代将軍綱吉の信頼を得ます。 そして、江戸本所に「杉山流鍼治導引稽古所」が設立されます。 福石手前の石柱は、和一が建てた江の島弁財天の道標です。 ~江の島弁財天道標~ 現在藤沢市には、和一の建てた江の島弁財天道標が12基残されています。 これは、 江の島 の弁財天に参詣しようとする目の不自由な旅人のために建てられたものです。 藤沢市役所前にある2基の道標 四面のうちの三面に「一切衆生」「ゑのしま道」「二世安楽」と刻まれています。 西行もどり松 片瀬の市民センター近くにある道標です。 この道標は他のものとは少し異なり「西行もどり松」と刻まれています。 ◎道標は以下の場所にあります。 白旗神社 遊行通り三丁目ロータリー 藤沢市役所(2基) 法照寺 片瀬小学校校門脇 密蔵寺向かい辻 片瀬市民センター 西行もどり松 湘南江ノ島駅(モノレール) 洲鼻通り 江の島福石 《江の島参詣道(遊行寺~片瀬~江の島)》 http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_8760.html ~杉山検校の墓~ 関八州の当道盲人を総括する「惣禄検校」にまでなった和一は、1694年(元禄7年)、本所の私邸で亡くなります。 江の島 には、和一の一周忌に門人の三浦安一によって