(問)平氏打倒の旗挙げの直後、[ ]の合戦に敗れた源頼朝は、海上で三浦氏と合流して、房総半島に逃れた。再度、関東の豪族を集めて勢力を立て直し、鎌倉に入り、[ ]に屋敷を構えた。
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れた後、伊豆国に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をします。
平家の目代山木兼隆を討ち、相模国へ進軍しますが、石橋山の戦いで大庭景親・伊東祐親らの軍に敗れてしまいました。
石橋山で惨敗した頼朝は、一時、箱根権現に身を寄せますが、真鶴から安房国に渡って再起。
千葉常胤や上総広常らを従えて鎌倉入りを果たします。
鎌倉に入った頼朝は、父義朝の屋敷跡(現在の壽福寺辺り)に御所を構えようとしますが、狭いことや岡崎義実が義朝のために建てた祠があったことなどから、大倉の地を選びました。
当初の頼朝の御所は、山ノ内の首藤兼道の屋敷を移したものだといわれています。
安倍晴明の護符の貼られた屋敷で火事に遭ったことがないということで選ばれたということです。
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(問)鎌倉において禅宗寺院が集中するのはどこか。
鎌倉時代、北鎌倉は山内荘と呼ばれていました。
1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉入りした時は山内首藤経俊の所領でしたが、経俊が石橋山の戦いで頼朝に敵対したことから没収され、土肥実平に預けられます。
そして、1213年(建保元年)の和田合戦で地頭だった実平の孫惟平が和田義盛に味方したため、北条義時のものとなりました。
そのため、北条氏ゆかりの禅寺が建ち並びます。
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