京都の小松家に伝来した北条義時追討を命ずる文書(複製)。
『承久記』によると・・・
後鳥羽上皇は1221年(承久3年)5月14日、鳥羽の城南院(城南寺)の流鏑馬のためと称して、在京の武士・畿内の兵士らを高陽院殿(里内裏)に集めました。
藤原清範の交名(文書)によると、その数は一千五百騎余りになったのだといいます。
翌日、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を下しています。
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「流鏑馬」・・・
その初見は、藤原宗忠の日記『中右記』で、1096年(永長元年)4月29日と5月2日に白河上皇が鳥羽離宮の馬場殿で流鏑馬を観覧したという記事。
その後、流鏑馬は城南宮(城南寺明神)の祭礼行事として定着。
流鏑馬を北面の武士に勤めさせることで院側近の勢力結集という目的があったのだと考えられ、のちに源頼朝が鶴岡八幡宮の放生会で始めた流鏑馬も軍事力の結集が目的であったのだといいます。
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京都文化博物館では、承久の乱を描いた「承久記絵巻」の特別展が開催されています。
期間:2021/4/6(火)~5/23(日)
時間:10:00~18:00
休館:月曜日
(ただし5/3は開館)
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北条政子の言葉は、動揺する御家人を勇気づけ、大将軍北条泰時の出陣で多くの御家人が参じた。
宇治橋と瀬田橋は京都防衛上の要衝。
源範頼と源義経の木曽義仲追討では、範頼が瀬田を義経が宇治を攻めた。
承久の乱では、北条時房が瀬田を北条泰時が宇治を攻めて入京した。
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