別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年4月15日木曜日

豊後国に上陸した源範頼軍と葦屋浦の戦い


一ノ谷の戦いで鎌倉軍に敗れた平家軍は、陣営を二箇所に分け、平宗盛が讃岐国の屋島に陣営を築き、平知盛が彦島に陣を布いていました。


『吾妻鏡』によると・・・

1185年(元暦2年)1月12日、源範頼が率いる平家追討軍は、周防国から赤間関へ到着し、彦島に拠る平家を攻撃しようとしますが・・・

食料も船もなく侍所の別当和田義盛などは密かに鎌倉に帰ろうという状況だったようです。

数日間、逗留した後、豊後の臼杵惟隆とその弟の緒方惟栄から船を徴発することとし、周防国へ戻ります。

そして、1月26日、臼杵惟隆と緒方惟栄が八十二艘の軍船を献上し、周防の宇佐那木遠隆が食料を献上したことで、範頼軍は豊後国へ渡ります。

従ったのは、

北条義時足利義兼小山朝政・小山宗政・小山朝光・武田有義・中原親能千葉常胤・千葉常秀・下河辺行平・下河辺政能・浅沼広縄・三浦義澄三浦義村八田知家・八田知重・葛西清重渋谷重国・渋谷高重・比企朝宗・比企能員和田義盛・和田宗実・和田義胤・大多和義成・安西景益・安西明景・大河戸広行・大河戸三郎・中条家長・加藤景廉工藤祐経・工藤祐茂・天野遠景・一品房昌寛・土佐房昌俊・小野寺道綱。

最年長の千葉常胤は老いをものともせず風波を凌いで渡り、加藤景廉は病の身を忘れて従いました。

食料がなくなっていた下河辺行平は、甲冑を手放して小船を買い、一番に船を進めました。

この行平の行動に対して、

「甲冑姿で大将の船に乗り戦場へ向かうべき」

と批判する者もいましたが、行平は、

「もとより命を惜しんではいないから、甲冑を着けていなくても、進退自由の船に乗って、一番乗りを目指している」

と主張したのだといいます。

三浦義澄は、周防国の守備に当たるよう命じられますが、それでは一番乗りの勲功が得られないと断ります。

しかし、説得されて周防国に駐屯することになったのだとか。



最初に豊後国に上陸したのは、北条義時下河辺行平渋谷重国・品川清実ら。

2月1日、筑前国の葦屋浦で平家軍の原田種直とその子賀摩種益らの攻撃を受けますが、下河辺行平渋谷重国らが応戦し、行平が美気種敦を討ち取っています。

この合戦の勝利により彦島に拠る平家軍を孤立させることに成功した範頼軍は長門国に入りますが、兵糧不足で周防国まで退いています・・・。


その後・・・

2月16日、讃岐国へ向けて源義経が出陣。

2月19日には、屋島の平家軍を奇襲して敗走させています。

敗れた平家は、瀬戸内海を転々としたのち長門国の彦島に本陣を布きますが、3月24日、源平両軍は壇ノ浦の海上で最後の合戦をすることとなります。



一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


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