別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2020年12月29日火曜日

城資盛と板額御前の反乱


1201年(正治3年)4月2日、越後国からの飛脚が鎌倉に到着し、城長茂の甥の城資盛が謀叛を起こし、佐渡・越後の軍兵がこれを攻めたが資盛の猛威に陣を破ることができなかったことが報告された。

翌日、北条時政大江広元三善善信が協議し、出家して上野国磯部の郷に篭居している佐々木盛綱(西念)を大将として鎮圧にあたることとする。

盛綱への御教書(命令書)は、和田義盛が受け取り、伝令を上野国へ遣わしている。

4月5日、義盛の伝令が上野国に到着。

盛綱は、屋敷の門外にいたが、御教書を読むと、屋敷に戻ることもなく、すぐに馬に乗って越後国へ向かったのだという。

家の者が追いついて

「軽はずみな行動では?」

と問うと

「その昔、天慶年中に平将門が反乱を起こした時、追討使となった藤原忠文は、宣旨が下されたとき食事をしていたが、箸を投げ捨てて参内し、刀を拝領して直ちに追討に向かったのだと聞いている。

この行動こそが勇士の心がけることだ」

と答えたのだとか。


4月8日には、城氏の勢力圏内である鳥坂口に到達した盛綱は、すぐに資盛に使者をたてて御教書の趣旨を伝えると、資盛は「こちらへ出向いていただき、雌雄を決したい」と返答したのだという。

その話を聞いた越後・佐渡・信濃の三カ国の御家人が一族郎党を引き連れて盛綱のもとに参集。

戦いは5月に入ってから・・・ 

盛綱の子息盛季は先陣を切ろうとしたが、信濃国の住人海野幸氏が盛季の右側から前へ出ようとした。

しかし、盛季の郎党が幸氏の馬の轡をつかんだことから、その間に盛季は先頭へ出て一番矢を放ち、幸氏が二番矢を放ったのだという。

二刻(4時間)に及ぶ合戦で、盛季も負傷し、郎党も傷を負わぬものはいなかったのだという。

一方、資盛の叔母の板額御前は、次々に敵を射殺し、その腕は百発百中で、佐々木軍を圧倒したのだとか。

しかし、信濃国の住人藤沢清親が板額御前の左右のももを射貫いて捕らえると、資盛軍は力を落とし敗北したのだという。





梶原景時

梶原景時の変






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