北条時宗は、1251年(建長3年)5月15日、五代執権北条時頼の子として、甘縄の第で誕生します。
母は、連署として父時頼を支えた北条重時の娘(葛西殿)。
(参考:隆弁の予告と北条時宗の誕生)
時宗には異母兄の時輔がいましたが、長幼の順によらず、北条得宗家の嫡子として育てられます。
(甘縄神明神社)
(甘縄神明神社)
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~北条時頼の「子息の序列」~
『吾妻鏡』によれば・・・
1257年(正嘉元年)2月26日、六代将軍宗尊親王の御所で元服し、一字を賜り「相模太郎時宗」と名乗ります。
1261年(文応2年)正月4日、鶴岡八幡宮の供奉の序列が、相模太郎(時宗)、相模四郎(宗政)、相模三郎(時輔)と定められます。
※宗政は時宗の同母弟、時輔は異母兄です。
この決定は、
「時宗は全てにおいて兄の上に着すべき」
という時頼の意向によるものだったといいます。
※時輔の母については、三河局とも、将軍家讃岐とも伝えられています。二人は同一人物ともいわれていますが定かではありません。
こうして、時頼は、北条得宗家の後継者が時宗であることを内外に認めさせていきました。
さらに、この年の4月23日、時宗は、有力御家人安達義景の娘堀内殿と結婚し、さらにその基盤を盤石なものとします。
結婚の翌々日の25日には、極楽寺で小笠懸が行われ、時宗は将軍の御前で妙技を披露し、時頼 はそれを見て「時宗こそ受け継ぐ器に相当」と喜んだといいます。
(極楽寺)
時宗のお手植えという鎌倉原産の桜。
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~八代執権北条時宗~
時宗の父時頼は、1256年(康元元年)11月22日、病気を理由に執権の座を退き、その職を重時の子長時に譲っています。
しかし、これは嫡子時宗が幼少であったための措置で、長時は時宗の代理としての就任でした。
1264年(文永元年)には、長時が執権を辞し、一族の長老北条政村が執権に就任しますが、この措置も、まだ14歳だった時宗の代理というものでした。
この時、時宗は連署に就任しています。
そして・・・
1268年(文永5年)正月、モンゴルの皇帝フビライからの国書がもたらされ、幕府は異国による襲来の危機にさらされます。
そんな年の3月5日、時宗が八代執権に就任しました。
※七代執権の北条政村は連署となっています。
その後、日本は、二度にわたって蒙古の襲来(元寇)を受けますが、時宗は見事にその難局を乗り切り蒙古軍を退けています。
1282年(弘安5年)には、円覚寺を創建し、蒙古襲来によって犠牲となった者の菩提を弔っていますが・・・
1284年(弘安7年)、心労が重なったためか、病に倒れ、4月4日に34歳の若さで亡くなりました。
遺体は円覚寺に葬られています。
(時宗の廟所:円覚寺)
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