宗盛は平清盛の三男。
重衡は五男。
この二人は、源平合戦で捕らえられ鎌倉に送られてきました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~一ノ谷で捕えられた平重衡~
重衡は、「南都焼討」(1180年(治承4年)12月)の総大将であったことで知られています。
また、実質的な源平合戦の初戦ともいわれる墨俣川の合戦(1181年(治承5年)3月)では、源行家を総大将とする頼朝軍に大勝しています(この戦いでは頼朝の弟義円が討たれました。)。
しかし、1184年(寿永3年)、無念にも一ノ谷の戦いで捕らえられてしまいます。
1184年(寿永3年)3月28日、重衡は、伊豆の国府で頼朝に対面します。
勝ち誇る頼朝に対し重衡は、「弓馬に携わる者、敵のために虜へらるること、あながち恥辱にあらず。早く斬罪に処せらるべし」と述べたといいます。
この態度に感心した頼朝は、工藤祐経を付け、重衡を客として厚遇したそうです。
鎌倉に入った重衡は、頼朝に一族の冥福を祈るよう阿弥陀仏を与えられたといいます。
その阿弥陀仏が教恩寺の本尊であると伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~壇ノ浦で捕えられた平宗盛~
宗盛は、1181年(治承5年)閏2月、平清盛が亡くなるとその跡を継ぎます。
清盛の「頼朝が首をはねて、わがはかのまえにかくべし」という遺言を果たすべく平家軍の総大将として戦いますが、墨俣川の合戦以後、大きな戦勝報告を聞くことはできず、1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦に平家は滅亡します。
宗盛は海に身を投じますが生捕りにされました。
1185年(元暦2年)5月16日、鎌倉に入った宗盛は、「ただ愁涙に溺るるの他なし」という有様だったといいます。
「助けてもらえるなら出家したい」
と嘆願したともいいます。
補陀洛寺には、宗盛が所持していたという平家の赤旗が残されています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
宗盛と重衡は、鎌倉の人々には対照的に写ったことでしょう。
そして、この2人は1185年(元暦2年)6月9日、別々に鎌倉を発ちます。
宗盛を護送したのは、頼朝の弟義経です。
宗盛は6月21日、近江国篠原宿で斬首されました。
重衡を護送したのは、以仁王とともに挙兵して平等院で自刃した源頼政の次男頼兼でした。
6月22日、東大寺の衆徒に渡された重衡は、翌23日、泉大津で斬首されました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆