別冊『鎌倉手帳』




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2011年6月20日月曜日

源平合戦で捕らえられた宗盛と重衡~鎌倉:教恩寺・補陀洛寺~

宗盛は平清盛の三男。

重衡は五男。

この二人は、源平合戦で捕らえられ鎌倉に送られてきました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~平重衡~

重衡は、「南都焼討」(1180年(治承4年)12月)の総大将であったことで知られています。

また、実質的な源平合戦の初戦ともいわれる墨俣川の合戦(1181年(治承5年)3月)では、源行家を総大将とする頼朝軍に大勝しています(この戦いでは頼朝の弟義円が討たれました。)。

しかし、1184年(寿永3年)、無念にも一ノ谷の戦いで捕らえられてしまいました。

1184年(寿永3年)3月28日、重衡は、伊豆の国府で頼朝に対面します。

勝ち誇る頼朝に対し重衡は、「弓馬に携わる者、敵のために虜へらるること、あながち恥辱にあらず。早く斬罪に処せらるべし」と述べたといいます。

この態度に感心した頼朝は、工藤祐経を付け、重衡を客として厚遇したそうです。


 教恩寺

鎌倉に入った重衡は、頼朝に一族の冥福を祈るよう阿弥陀仏を与えられたといいます。

その阿弥陀仏が教恩寺の本尊であると伝えられています。



 平重衡捕らわれ松跡

 一ノ谷古戦場


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~平宗盛~

宗盛は、1181年(治承5年)閏2月、平清盛が亡くなるとその跡を継ぎます。

清盛の「頼朝が首をはねて、わがはかのまえにかくべし」という遺言を果たすべく平家軍の総大将として戦いますが、墨俣川の合戦以後、大きな戦勝報告を聞くことはできず、1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦に平家は滅亡します。

宗盛は海に身を投じますが生捕りにされました。

1185年(元暦2年)5月16日、鎌倉に入った宗盛は、「ただ愁涙に溺るるの他なし」という有様だったといいます。

「助けてもらえるなら出家したい」

と嘆願したともいいます。


 補陀洛寺

補陀洛寺には、宗盛が所持していたという平家の赤旗が残されています。

 平家の赤旗


 壇ノ浦古戦場


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

宗盛と重衡は、鎌倉の人々には対照的に写ったことでしょう。

そして、この2人は1185年(元暦2年)6月9日、別々に鎌倉を発ちます。

宗盛を護送したのは、頼朝の弟義経です。

宗盛は6月21日、近江国篠原宿で斬首されました。

重衡を護送したのは、以仁王とともに挙兵した源頼政の次男頼兼でした。

6月22日、東大寺の衆徒に渡された重衡は、翌23日、泉大津で斬首されました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 源平合戦

 源義経

 歴史めぐり源頼朝


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