(大仏殿)
東大寺は、728年(神亀5年)、聖武天皇が建立した金鍾山寺がその始まりと伝えられています。
741年(天平13年)、国分寺(金光明寺)と国分尼寺(法華寺)建立の詔が発っせられたことにより、金鍾山寺が金光明寺となって、その後東大寺が創建されたのだそうです。
大仏殿前の八角燈籠(国宝)
(奈良の大仏)
大仏殿に安置されているのは東大寺の本尊「銅造盧舎那仏坐像」。
743年(天平15年)、聖武天皇は「大仏造顕の詔」を発します。
747年(天平19年)頃から始められたという大仏の鋳造は、752年(天平勝宝4年)に終了しています。
しかし、仕上げの作業は755年(天平勝宝7年)までかかったといいます。
大仏殿は、大仏鋳造が終わった後の758年(天平宝字2年)に完成しました。
創建当初の大仏殿は現在のものより大きく、東西には100メートルに達する七重塔が配されていました。
しかし、1180年(治承4年)、東大寺は平重衡の南都焼討によって灰燼に帰してしまいます。
翌年から重源を大勧進として進められた再建は、1185年(元暦2年)に大仏の鋳造が終了し、1195年(建久6年)に大仏殿の落慶供養が執り行われました。
最大の外護者だった源頼朝も参列しています。
このときの大仏殿は創建当初のものと同じ大きさだったといいます。
その大仏殿も1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火によって再び焼失。
鎌倉期のときのように復興は進まず、大仏開眼供養が行われたのが1692年(元禄5年)、大仏殿落慶供養は1709年(宝永6年)になってからのことでした。
大きさも創建当初の3分の2だといいます。
虚空蔵菩薩
如意輪観音
脇侍の虚空蔵菩薩と如意輪観音、四天王像は運慶とその一族によって造立されたものだったといいます。
広目天
多聞天
源頼朝も御家人に命じて造像の負担をさせたと伝えられています。
しかし、松永久秀の兵火によって焼失してしまいました。
持国天と増長天は頭部
その後、造像されたのが現在の諸仏ですが、持国天と増長天は頭部が残されているのみとなっています。
柱の穴
柱に開けられた穴は、大仏の鼻の穴と同じ大きさだといわれ、この穴をくぐると無病息災のご利益があるといわれています。
(奈良の大仏)
蓮弁
(大仏殿)
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鎌倉との繋がりを求めて。