別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2018年8月23日木曜日

鎌倉幕府滅亡後、伊豆に移された東慶寺の鐘

 東慶寺の鐘


現在の東慶寺の鐘は、1350年(観応元年)に鋳造されたもので、もとは補陀洛寺の鐘でした。

では、それ以前の鐘は・・・

1332年(元徳4年)に14代執権・北条高時の母・覚海円成が鋳造させた鐘がありました。

しかし、1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉幕府が滅亡すると、覚海尼は残された子女とともに北条氏の拠点だった伊豆国北条に移り住みます。

その時、東慶寺の鐘も伊豆へ運ばれたと考えられているようです。

伊豆に移り住んだ覚海尼は、源頼朝も暮らした北条氏館の跡に尼寺の円成寺を建立。

円成寺は、江戸時代まで続き、東慶寺の鐘も廃寺となるまで円成寺にあったそうですが、その後、徳川幕府の代官だった江川氏の菩提所本立寺へ移されました。


 本立寺の鐘


本立寺は平安時代から続く江川家の菩提寺。

鐘には、最初に「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘」と刻まれ、文末には「壬申元徳二二年結制後十一日」、「大檀那菩薩戒尼 円成」と刻まれています。

壬申元徳は西暦1332年。

後醍醐天皇は1331年に「元徳」から「元弘」と改元していますので、本来「元徳」ではなく「元弘」を使うのでしょうが、鎌倉幕府は「元徳」を使い続けていたのだそうです。

鐘に刻まている元徳のあとの二二年ですが・・・

「元弘2年」という意味と、もうひとつ二を書き加えることで「四」と読ませ「元徳4年」という意味としたのではないかという説も・・・。






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(伊豆の国市)

(伊豆の国市)

 東慶寺
(鎌倉)

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 源頼朝の配流地・伊豆の国市

 鎌倉幕府滅亡

 鎌倉手帳



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