826年(天長3年)、弘法大師(空海)は東寺の五重塔造営に着手します。
その用材は伏見の稲荷山から伐り出したのだといいます。
ところが、淳和天皇が病気となってしまいます。
その原因は聖域である稲荷山から木を伐り出したことにありました。
東寺は王城鎮護のために創建された官寺。
そこで朝廷は、伏見稲荷大社に従五位の下を授けて謝罪します。
また、弘法大師は山上にあった稲荷神を現在地に勧請し、それ以来、伏見稲荷大社は東寺の鎮守社になりました。
このようにして、稲荷信仰は真言密教と深く結び付いて広まっていったのだそうです。
その後、伏見稲荷大社は、942年(天慶5年)に正一位を授けられ、963年(応和3年)には都の東南の鎮守社とされています。
15世紀後半には、東寺末の愛染寺が境内に建立されました。
愛染寺は明治の神仏分離によって廃されていますが、5月3日の「稲荷祭」(還幸祭)では、西九条の御旅所を出発した五基の神輿を中心とする列は、途中で東寺の僧による「東寺神供」を受けてから本社へ向かうそうです。
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