父は足利氏の初代義康。
母は熱田大宮司藤原範忠の娘(源頼朝の母由良御前の姪)。
※ | 藤原範忠は熱田大宮司藤原季範の長男で、その娘が足利義康の妻となり義兼を生んでいます。 源頼朝の母由良御前は、季範の娘。 従って、熱田大宮司藤原季範の血筋は、鎌倉幕府の源氏三代と摂家将軍二代、そして、のちの室町幕府将軍家へと伝わっていくことになります。 |
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
足利義兼は、源頼朝の挙兵から早い段階で源頼朝に従ったと考えられ、1180年(治承4年)12月12日、頼朝が大倉の新亭(大倉幕府)に移るときには、集まった御家人の中に名を連ねています。
翌年には北条時政の娘時子を妻としました(時子は北条政子の同母妹と考えられています。)。
浄妙寺は、足利義兼が父義康の菩提を弔うために創建した真言宗の極楽寺を前身としているという。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
足利義兼は、鎌倉幕府では源頼朝の一門として重き地位に置かれ、頼朝の側近として仕えていました。
1184年(元暦元年)、平氏追討のため源範頼に従って西海に赴く。
1185年(文治元年)、上総介に補任。
1188年(文治4年)正月、垸飯(おうばん)を献じる。
※垸飯とは、有力御家人が御所で頼朝を饗応する行事。
1189年(文治5年)、奥州征伐に出陣。
1190年(建久元年)、藤原泰衡遺臣の追討使として奥州へ発向。
1192年(建久3年)、鶴岡八幡宮の放生会で頼朝に代わり奉幣の御使を勤める。
1195年(建久6年)3月、源頼朝は東大寺の大仏殿落慶供養に参列するため上洛します。
足利義兼も頼朝の随兵として上洛しましたが、義兼は東大寺で出家し、以後、下野国足利に隠棲して、邸内の持仏堂で念仏三昧の生活を送っていたといいます。
1199年(建久10年)3月8日死去。
義兼は、持仏堂の僧を教学に励ませたことから「足利学校の創設者」ともいわれています。