1910年(明治43年)1月23日、逗子開成中学の生徒12人は、
江の島までの旅に出て、その帰路、
七里ヶ浜の沖で遭難してしまいます。
この事故によって生徒12人の全員が死亡しました。悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が作詞したのが「七里ヶ浜の哀歌」。
「七里ヶ浜の哀歌」の歌詞は、
ボート遭難碑にはめ込まれています。
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真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心
ボートは沈みぬ千尋の海原
風も浪も小さき腕に
力も尽き果て呼ぶ名は父母
恨みは深し七里ヶ浜辺
み雪は咽びぬ風さえ騒ぎて
月も星も影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く母の胸に
みそらにかがやく朝日のみ光
暗に沈む親の心
黄金も宝も何にし集めん
神よ早く我も召せよ。
雲間に昇りし昨日の月影
今は見えぬ人の姿
悲しさあまりて寝られぬ枕に
響く波の音も高し
帰らぬ浪路に友呼ぶ千鳥に
我も恋し失せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日もかくてとわに
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