別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年2月25日土曜日

万事皆夢の如し~天神:菅原道真~

荏柄天神社の祭神菅原道真は、平安時代前期に活躍した学者、延臣。

宇多・醍醐天皇に仕え右大臣にまで昇りますが、藤原時平の讒言で失脚し、左遷先の太宰府で最期を遂げています。


菅原道真(長谷寺像)


宇多天皇は、891年(寛平3年)、関白藤原基経が没すると、藤原良房・基経の30年におよぶ藤原氏の執政から、天皇親政を復活させます。

菅原道真は、893年(寛平5年)に参議に起用され、藤原氏を牽制する宇多天皇のもとで要職を歴任しました。


895年(寛平7年)、長女衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、897年(寛平9年)には、宇多天皇の第三皇子斉世親王(ときよしんのう)にも娘を嫁がせています。

※これらの行動は、藤原氏のような野望から出たものではないでしょうが、のちに攻撃される材料となってしまいます。


897年(寛平9年)、宇多天皇が退位し、13歳の醍醐天皇に譲位されます。

宇多天皇は、幼い醍醐天皇に道真の教導に従うよう説き、道真に後事を託したといいます。

そして、醍醐天皇の親政は、宇多天皇の指示に基づき、藤原時平(基経の長男)と道真が内覧という立場から朝政を取りしきることになりました。

※内覧・・・関白にほぼ等しい地位。

その後、藤原氏の執政に戻したい時平と、親政を維持しようと努める道真との間には緊張した状況が続くことになります。


899年(昌泰2年)には、時平が左大臣、道真が右大臣となりますが、同年、宇多上皇が出家したことによって、醍醐天皇の後楯としての力が弱まり、宇多上皇の庇護をうけてきた道真は大きな打撃を受けます。

宇多上皇の出家は、時平にとっては、道真と対決するいい機会となりました。

一方、公卿たちの間でも、宇多上皇の後押しで右大臣にまで昇った道真に対する反感があったといいます。


そして、901年(延喜元年)正月、時平は、大納言源光を味方に引き入れて行動を開始し、

「道真は天皇を廃し、自分の娘婿である斉世親王を立てるつもりです。

すでに法皇の同意も得ているようです」

と醍醐天皇に讒言したといいます。


醍醐天皇は、1月25日に詔を発し、道真を大宰権帥に左遷しました(昌泰の変)。

※道真の左遷については諸説ありますが、真相は定かではないようです。


「ながれゆくわれはみくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ」

左遷となった道真が宇多法皇に送った歌だといいます。


1月30日、道真は、邸に妻宣来子と年長の女子を残して太宰府への旅程につきます。

道真の長男高視らの子たちも、左遷されそれぞれの任地に下向しました。

「東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」

「君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや」

これは、道真が都を去るときに残したといわれる歌です。


北野天神縁起
太宰府に左遷される道真が庭の梅に別れを告げる場面。
「東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」

老齢で病をもっていたという道真は、903年(延喜3年)2月25日、太宰府で病死し、同地に葬られました(現在の太宰府天満宮:59歳)。

道真の詩文集『菅家後草』に

家を離れて三四月
涙を落とす百千行
万事皆夢の如し
時々彼蒼(大空)を仰ぐ

という詩が載せられています。



北野天神縁起
(道真の怨霊が清涼殿を襲う図)








道真の死後、京都では異変が相次ぎます。

909年(延喜9年)4月26日、道真を失脚させた藤原時平が39歳で死去。

923年(延喜23年)4月14日、醍醐天皇の皇子保明親王が病死。

※保明親王は皇太子でした。

925年(延長3年)6月19日、保明親王の子慶頼王が病死。

※慶頼王は、父保明親王の死後、皇太子となっていました。

930年(延長8年)6月26日、清涼殿に落雷。この年の9月29日、醍醐天皇が崩御。

これらの事件が、道真と祟りだと恐れた朝廷は、北野天満宮を建立し道真の祟りを鎮めようとします。

北野天満宮


こうして、道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まりました。

道真の死後から90年が経った993年(正暦4年)、朝廷は道真に「太政大臣」の地位を贈っています。


荏柄天神社


『相模國鎌倉荏柄山天満宮略縁起』によれば、

1104年(長治元年)8月25日、荏草郷といわれた土地に、にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきました。

神験を恐れた里の人々は、その場所に社殿を建て、その画像を祀ったそうです。

それが現在の荏柄天神社です。


御神木:大銀杏

荏柄天神社大銀杏は、「天神画像が降ってきた場所を踏まないように」と里人が植えたと伝えられる御神木です。


束帯天神像:荏柄天神社


1180年(治承4年)、鎌倉の大蔵の地に御所を造営した源頼朝は、荏柄天神社を鬼門の守護神として仰ぎ、社殿を造立したと伝えられています。

以後、鎌倉幕府の守護神として尊崇されました。

『吾妻鏡』によれば、道真の300回忌にあたる1202年(建仁2年)の荏柄天神社の祭に、大江広元が奉幣の代参を務めています。


★25日は、天神様の縁日。

道真が生まれたのは、845年(承和12年)6月25日。

太宰府左遷の詔が発せられたのが1月25日。

亡くなったのが903年(延喜3年)2月25日。

荏草郷に天神画像が降ってきたのが1104年(長治元年)8月25日。

荏柄天神社「初天神」は1月25日、「例祭」は7月25日です。








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荏柄天神社




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