別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年6月10日金曜日

源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~

源頼朝の守り本尊は正(聖)観音像でした。


1180年(治承4年)8月17日、頼朝は源氏再興の旗挙げをします。


伊豆の目代山木兼隆を討ち、相模へ向けて軍を進めますが、石橋山の戦いでは大庭景親に大敗し山中に逃げ込みます。


『吾妻鏡』(治承4年8月24日条)によると・・・

頼朝は髷に観音像を入れていました。

しかし、景親ら平氏方に捕まったときに、「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考え、観音像を山中の洞窟に置いて逃げたそうです。

この観音像は、頼朝が三歳のときに京都清水寺から下された二寸銀の正(聖)観音像だったといいます。


 清水寺

 源頼朝船出の浜

石橋山の戦いで敗れた頼朝は、この浜から安房に渡ったと伝えられています。

観音さまが船頭となって頼朝を助けたという伝承もあります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その後、洞窟に置いてきた観音像は、伊豆山の專光坊良暹の弟子僧が見つけて頼朝に届けたといいます(『吾妻鏡』治承4年12月25日条)。


 伊豆山神社
(熱海市)

頼朝が観音像を置いたという岩窟
 しとどの窟
(湯河原町)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1189年(文治5年)、頼朝奥州征伐の折、專光坊良暹を呼び出し、御所の裏山に祈願所を設けて、頼朝の守り本尊である「二寸銀の正(聖)観音像」を安置し祈ることを命じています(『吾妻鏡』文治5年7月18日条)。


これが頼朝の持仏堂と呼ばれるもので、頼朝亡き後には法華堂と呼ばれたといいます。


 源頼朝の墓

法華堂があったとされる場所には供養塔が建てられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~参考~

『吾妻鏡』によると、頼朝は、挙兵前の1180年(治承4年)7月4日、伊豆山の僧文陽房覺淵を北条屋敷に呼び出しています。

頼朝は、挙兵前に法華経を千回読むつもりでいたようです。

しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなりました。

そこで、

「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」

と覺淵に訪ねたといいます。

すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたといいます。



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