1180年(治承4年)8月17日、頼朝は源氏再興の旗挙げをします。
伊豆の目代山木兼隆を討ち、相模へ向けて軍を進めますが、石橋山の戦いでは大庭景親に大敗し山中に逃げ込みます。
『吾妻鏡』(治承4年8月24日条)によると・・・
頼朝は髷に観音像を入れていました。
しかし、景親ら平氏方に捕まったときに、「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考え、観音像を山中の洞窟に置いて逃げたそうです。
この観音像は、頼朝が三歳のときに京都清水寺から下された二寸銀の正(聖)観音像だったといいます。
石橋山の戦いで敗れた頼朝は、この浜から安房に渡ったと伝えられています。
観音さまが船頭となって頼朝を助けたという伝承もあります。
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その後、洞窟に置いてきた観音像は、伊豆山の專光坊良暹の弟子僧が見つけて頼朝に届けたといいます(『吾妻鏡』治承4年12月25日条)。
(熱海市)
頼朝が観音像を置いたという岩窟
(湯河原町)
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1189年(文治5年)、頼朝は奥州征伐の折、專光坊良暹を呼び出し、御所の裏山に祈願所を設けて、頼朝の守り本尊である「二寸銀の正(聖)観音像」を安置し祈ることを命じています(『吾妻鏡』文治5年7月18日条)。
これが頼朝の持仏堂と呼ばれるもので、頼朝亡き後には法華堂と呼ばれたといいます。
法華堂があったとされる場所には供養塔が建てられています。
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~参考~
『吾妻鏡』によると、頼朝は、挙兵前の1180年(治承4年)7月4日、伊豆山の僧文陽房覺淵を北条屋敷に呼び出しています。
頼朝は、挙兵前に法華経を千回読むつもりでいたようです。
しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなりました。
そこで、
「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」
と覺淵に訪ねたといいます。
すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたといいます。
鎌倉との繋がりを求めて。