(和田の里)
三浦市初音町の「和田の里」は、和田義盛が開拓した土地です。
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~泉親衡の謀叛計画~
和田合戦は、1213年(建保元年)2月16日、信濃国の住人泉親衡の謀叛計画が発覚したことをきっかけとしています。
親衡は、二代将軍源頼家の遺児栄実(幼名千寿)を擁して、北条義時を討滅を計画していました。
謀叛計画の加担者の中に義盛の子義直・義重と甥の胤長がいました。
源頼朝亡き後、幕府の実権を握るため、梶原景時、比企能員、畠山重忠といった有力御家人を次々に滅ぼしてきた北条氏がこの機を逃すはずがありません。
源実朝への謀叛を計画した張本人泉親衡は、筋違橋に隠れていたところを攻められ逃亡し、その後の行方は不明のままです。
そもそもこの事件、和田義盛を滅ぼすための北条義時による陰謀なのかもしれません。
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~北条義時の徴発~
謀叛計画に加担したとして捕らえられた3名のうち、義直と義重は許されました。
ただ、胤長だけは許されず、実朝に赦免を訴えに来た和田一族98人の前で、両手を後ろ手に縛られたまま引かれていくという屈辱を受けたといいます。
また、荏柄天神社の前にあったとされる胤長の屋敷は、いったんは、これまでの慣例によって義盛に下げ渡されます。
しかし、義時はこの屋敷を取り上げて自分のものとしてしまいます。
義時から、度重なる屈辱を受けた義盛は、戦備をととのえはじめます。
しかし、それは義時の思うつぼでした。
渋川兼守という人物も謀叛計画に加担したとして捕らえられ、処刑が決まっていたといいます。
兼守は、無実を訴えるための和歌を荏柄天神社に奉納したところ、その和歌が源実朝に認められ罪を許されたといいます。
そのお礼に架けたのがこの歌ノ橋ということです。
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~和田義盛の挙兵~
義盛は当初、武蔵横山党の援軍を待って出軍する予定でしたが、義盛に同意し起請文まで渡していた一族の三浦義村が裏切り、義時に義盛の計画を知らせてしまったことから、横山党の到着を待たず蜂起せざるを得なくなってしまいます。
1213年(建暦3年)5月2日早朝、和田軍150騎が将軍御所、義時邸、大江広元邸に襲いかかります。
将軍御所は炎上し、実朝は、義時、広元とともに源頼朝の法華堂に避難しています。
そして、激しい攻防戦は夜まで続きますが、兵も矢も尽きた和田軍は由比ヶ浜へ退却しました。
翌朝、武蔵横山党が到着したことにより、一時和田軍は勢いを盛り返しますが、大江広元が実朝の「御判」を載せた和田一族討伐の指令書を様子をうかがっていた武士団に発したこともあって、ついに和田一族は全滅しました。
江ノ電「和田塚駅」の南にある塚です。
和田一族を葬った場所といわれていますが・・・。
ただ、そういわれるようになったのは明治に入ってからで、どうも和田合戦とは直接関係はないようです。
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~友を食らう三浦義村~
『吾妻鏡』には、和田義盛と横山時兼は、5月3日に挙兵する約束をしたことが記されています。
この記述から、義盛が当初の計画を変更したことは明らかです。
前日の2日挙兵せざるを得なくなった理由は、三浦義村の通報によって、和田軍の計画が事前に北条義時に洩れたからと考えるのが妥当なのでしょう。
そして、この予定変更が和田軍にとっては大きなつまづきとなったことも確かです。
『古今著聞集』には、ある正月元旦の将軍御所で、三浦義村の上席に千葉胤綱が着席した折、
義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」
とつぶやくと、
胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」
とつぶやいたという話が載せられています。
義村の裏切りを批判したものとして知られています。
鶴岡八幡宮の太鼓橋や若宮大路の琵琶橋も和田合戦の舞台となりました。
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※北条義時は、和田義盛を滅ぼしたことによって侍所の別当となっています。
既に政所の別当の職にあった義時は、侍所別当をも兼ねることにより、幕府の重要ポストを独占します。
そして、ここに北条執権政治の形がほぼ固まったということになります。
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※泉親衡に担ぎ出された源頼家の遺児栄実は、比企の乱で死んだ一幡、実朝を暗殺した公暁、四代将軍藤原頼経に嫁いだ竹御所とは異母兄弟、実朝暗殺事件後に殺された禅暁の同母兄です。
和田合戦の翌年、幕府軍に攻められ自刃しています。